大盤帽 陳岳儀 紀念專頁
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台 北 衛 戍 区 の 変 遷

日本語担当:DDS


はじめに

台湾の憲兵隊は首都台北の警備を主な任務のひとつとしている。その警備方針とは、首都圏内において地域治安情報の事前探知による社会安定の確保と、首都圏入り口に警備拠点の設置により異常侵入の早期対応を図るという二本柱で行なわれている。1982年の「衛安五号演習(首都警備統合訓練)」において、憲兵隊の1大隊が台北市へ入る橋梁と高速道路を全面的に警備拠点に配置した。翌年、三つの「憲兵指揮部(憲兵隊司令部)」が首都防衛の責任に任され、本来の陸軍首都警備区は廃止された。

憲兵隊は伝統的に大多数の兵力を台北圏に配置し、平時において「固安計画(台湾防衛作戦計画)」の戦略予備部隊とし、有事の際には首都へ侵入者をその場で阻止しながら首都中心部の上級司令部へ通報するという中枢部の早期警戒システムの役割を果たしている。

2008年の国防白書のなかに、「憲兵隊は平時戦時に問わず、『衛戍(えいじゅ:首都防衛)』、テロ対策、特種警衛、飛行場防衛、軍事警察ならびに三軍連合作戦などの軍事勤務以外に、軍法、司法警察、治安、災害救助などの支援義務が任されている。」と記されている。

近年憲兵隊の首都防衛体制がさらに強化され、歩兵部隊編成以外に 装甲大隊砲兵大隊などが新たに創設され、勤務方針も「衛戍」を中心に変更されつつある。

以下の内容は戦後の半世紀以来の「台北衛戍区」守備部隊の変容についての説明である。


一、「衛戍」とは

(1)語源

「衛戍(えいじゅ)」の語源とは、旧日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久一地に配備駐屯することをいう。その土地を「衛戍地」と称した。英語のGarrisonに当る。(Wikipediaより)。国民政府が1935年に制定した「衛戍条例」の第1条も似たような定義を採用している。

したがって、現在の台湾の「憲兵司令部」は旧日本陸軍の「東京衛戍総督部」に、「憲兵第二〇二指揮部」は「近衛師団」に相当すると考えられる。

(2)現在の台湾軍の解釈

最新版の「国軍軍語辞典」によると、「衛戍区」とは、「首都または国家元首の所在地域、すなわち国家の中枢部である。国の生存ならびに全国民の士気に関わり、常に敵や反乱組織に狙われ最も重要な標的である」と示されている。

この内容によると、台湾軍は「衛戍区」を軍隊常駐よりさらに絞った解釈をとっており、要するに国家の政治中心地に駐屯し防衛を担当する軍隊のみがこの定義に該当し、もちろんこれは台湾の首都台北市を指すものとされている。


二、台北衛戍区のはじまり

(1)台北衛戍任務と最初の衛戍部隊

台湾省警備旅団

1947年に、中国で再編成された国民党軍第21師団が二二八事件の鎮圧任務を終えた後、そのまま台湾に残り台湾守備部隊として駐在していたが、まもなく国共内戦の悪化により中国に移動された。この時の台湾の守備兵力は台北の憲兵第4連隊の三つの大隊が台湾全島にわたり、各地の憲兵隊、海岸哨戒所や駅に駐在していたのみである。このため台湾全省警備司令長官彭孟緝(ほうもうしゅう)は中国福建省から募集してきた「台湾省警備旅団」を1948年2月から台北および基隆の全域に配置し、「台湾警備総部 」の直轄のもとで治安維持部隊とし、政府要員の警護以外に、重要資産の運送警備などの勤務をしていた。【注】

【注】本来台湾に駐屯している憲兵第4連隊は2つの大隊のみ、この2つの大隊が台湾全島に配置されていたが、二二八事件当時中国福建省の福州から2つの憲兵大隊(憲兵第21連隊1大隊および憲兵第4連隊の1大隊)が増援され台湾に上陸してきた。事件後この4つの憲兵大隊は新たな憲兵第4連隊として再編成され、そのまま台湾に駐在してきた。

「台湾省警備旅団」の創立当時の人事は総統府の軍務局長である兪済時(ゆさいじ)が主導権を握り、本来の「総統府警衛総隊」の将校団を転任させ、旅団長も本来の警衛総隊の副総隊長任世桂(にんせけい)が就任することになった。

1949年5月19日に国民党政権が「台湾省戒厳令」を発布し、台湾全域を五つの戒厳区に分けている。翌日から戒厳令が実施され、台北市戒厳区には「台湾省垣警備指揮部兼戒厳司令部」(司令部の所在地は旧日本軍台湾歩兵第一連隊の駐屯地であり、今の自由広場・中正記念堂)が市内の警備・治安および作戦の最高機関とされた。「台湾省警備旅団」旅団長の任世桂(にんせけい)がその司令官、台北市憲兵第4連隊長高佑民(こうゆうみん)が副司令官に任命された。これが最初の台北衛戍任務で、その体制がみられるようになった。

(2)法律根拠

衛戍司令(のち台湾警備総部が兼ねる)は「戒厳法」と「衛戍条例」に基づき、区内の警備・治安を維持するために、すべての人員、車両、または集会・デモ、爆発物や軍事装備などに対する管制権を有している。


三、台北衛戍部隊の推移

台湾省警備旅団の創立から二年も経ていない1950年の始めごろから国民党政権は台湾まで逃げ込み、連れてきた国民党軍は孫立人(そんりつじん)将軍の指示下に全面的に再編され、台湾省警備旅団も新たに陸軍歩兵第363師団の部隊番号が付与された。本来の旅団長何俊(かしゅん)はそのまま師団長に任命された。その他、陸軍第207師団、第339師団と共に当時北台湾防衛区の「陸軍衛戍第6軍(army corps)」の直轄部隊となり、台北エリアの防衛体制を作り上げたが、第363師団は変わらず以前の同じ任務、すなわち憲兵第4連隊と共に台北市の警備・治安を担当している。ちなみに当時の第6軍司令官戴樸(たいぼく)はのちに警備総部の副司令官に昇進した。

(1)陸軍野戦衛戍部隊

陸軍第32師団(白団部隊)

1952年より台湾陸軍はアメリカの援助を得て、米軍式の再編が取り入れられた。第363師団が撤去され、その将兵を陸軍第69師団(元第339師団)に編入させ、師団長の何俊もそのまま第69師団長となった。この時の台北第6軍は第32師団、第68師団と第69師団を管轄している。

同年7月、「台北省垣警備指揮部」が廃止され、その代わりに「台北衛戍司令部」が創立された。保安司令部副司令官彭孟緝が衛戍司令官を兼任し、台北衛戍区の警備・作戦および治安の最高組織とされた。まもなく台北衛戍司令部が二二八事件後最大の白色テロといわれる「鹿窟事件(1952年12月)」を摘発し、掃討任務を担当する部隊は所属の第32師団第95連隊と第96連隊であった。

当時の「台北衛戍区」が行なう警備方針は「鉄環計画」とよばれ、要は衛戍区内に対し、外敵(スパイを含む)が台北市へ潜入し拠点を立てる前にその拠点を徹底的にせん滅することなのである。このような「衛戍演習」は毎年実施しているという。

台北大直の第6軍が基隆河を渡り、台北衛戍部隊を増援する訓練風景。

1964年まで第32師団は長い間衛戍部隊として勤務し、なかの第94連隊(本部:桃園大湳【だいだん】)が 桃園県角板山台北県烏来三峡 大寮地など蒋介石の「行館」周辺に駐屯され、特に1大隊は「復興賓館」の外環警備を担当している。第94連隊は1952年に「国防部警衛団」より改編されたもので、本来は総統府と士林官邸の警備担当であり、政治中枢の警備はかなり熟練していたと考えられる。1964年より第32師団は第46師団と勤務交代となった。

第32師団の第95連隊第3大隊も「国防部警衛団」の第2大隊より改編されたもので、任務は本来と変わらず総統府の警備担当とされている。当時の大隊長陳守山(ちんしゅざん)はのちに台湾籍で将軍まで昇進した第一人者であり、その後「警備総司令長官」となった。この第3大隊は1955年に総統府の憲兵警備隊と合併され、「憲兵独立第1大隊」となり、今の総統府憲兵第211大隊の元祖とも言われている。

第32師団は日本軍事顧問である白団・ 実践学社連戦班より日本式の戦術教範で訓練され、蒋介石にもっとも重視される部隊のひとつである。当時の陸軍綜合(戦術・戦技)競技における評価はいつも米軍式で訓練されてきた第67師団より高かったため、将校らは実践学社出身でなければ、師団長以上に昇進できないという不文律までが成り立っていた。

1954年5月に第6軍の部隊番号が撤去され、代わりに台北第3軍が設立され、その下に淡水河南北を防衛する第9師団、桃園南崁渓 より 宜蘭県花蓮県の境である和平渓までを防衛する第10師団および首都衛戍を担当する第32師団を管轄している。

1956年9月、台北衛戍演習
外環部隊が淡水河を渡り、首都衛戍部隊を増援する訓練。

1957年8月から翌年の2月まで、第10軍の第58師団は 台中后里から台北市内の 万華双連に進駐され、一時的に「衛戍部隊」として勤務されたが、その後また 台北県林口(台北盆地の入り口)に移駐された。

1958年5月、「保安司令部」と「衛戍司令部」が合併され、「台湾警備総司令部(略して警備総部または警総とよばれる)」となり、そのなかに「衛戍組(課)」が設置されており、警備総部の司令長官が台北衛戍司令官を兼任し、「衛戍作戦」の最高組織とされている。

1960年春、金門島 防衛の第69師団が「内衛師団(蒋介石総統官邸警備師団、本部は 円山 に設置されているため、円山師団とも呼ばれている)」として台北へ移駐され、なかの第207連隊が 士林官邸周辺および 陽明山地域の警備担当にされた。

1961年3月に第41師団が第69師団と交代し台北へ進駐してきた。

1962年、第27回衛戍戒厳統合会議で「国軍各人員・車両・武器が台北市内へ進入する際に、事前に警備総司令部の認可を得なければならない」という訓令が出された。

1963年に第33師団が第41師団と交代した。

1964年2月、 新竹湖口兵変(装甲部隊反乱事件)の影響を受け、国防部は「国軍武装部隊の衛戍区進入管制法」を発布した。まもなく台北衛戍軍円山師団の所属憲兵中隊が台北市の境である淡水河を渡る三大橋(台北橋、中興橋、華江橋)にそれぞれひと分隊を配置し、さらに一本の橋に一両の無反動力砲車を加え、本来の陸軍橋梁哨戒所 (台北万華の東園衛戍大隊が一橋一小隊)と合同で軍用車両の検問を行なっている。

1972年に台北衛戍野戦部隊の陸軍第33師団が陽明山頂に建てた記念碑。

また、衛戍師団の「内衛連隊(台北内湖連隊)」が警備総司令部の指示のもとで1工兵小隊をこの三大橋にぞれぞれ1分隊を配置している。有事の際には橋を爆発させ、首都への侵入部隊を阻止するという防衛作戦計画である。

冷戦時代に部隊の交代が頻繁に行なわれ、全ての首都衛戍部隊を検証するのは不可能であるが、1956年~1965年までは陸軍第3軍が管轄する野戦師団は比較的に長かった。この間第3軍の第33師団、第57師団と第58師団は1960年後に第10師団、第51師団、第69師団および第17師団と入れ替わられた。

最後の陸軍衛戍師団―陸軍第234師団

1971年の 国連追放 、1972年の 日台断交 などの影響を受け、険しい情勢の中で部隊の再配置が頻繁に行なわれている。1973年6月、第34師団は高雄から北上し、第33師団の「円山衛戍師団」と一時的に任務交代をしたが、1976年に第33師団が再び円山衛戍師団に戻された。1976年「江都演習」後、第333師団【注】が第234師団と交代された。

1981年5月の「安邦演習」に第234衛戍師団を建国記念式典の観閲式に参加させるため、桃園の 楊梅 に駐在した第193師団と交代させた。翌年の7月に第193師団は前線師団として 馬祖 へ移動された後、再び第234師団が台北の馬明潭駐屯地に進駐された。ここから警備総部が直接に衛戍師団の管轄をし始めた。

1983年に就任したばかりの警備総司令長官陳守山上将(大将)が台北防衛方針を大幅に変更し、結局最後の陸軍衛戍野戦師団となった第234師団(円山師団)は台北市から引き揚げられた。【注】

【注】郝柏村(かくはくそん)参謀総長の在任中に「陸精計画」を実施することとなり、野戦師団の移駐は中止となった。このため、台北市関渡の第226師団所属の第677旅団(本部:台北市内湖区)が依然として「博愛特別警戒区(総統府)」の警備勤務を続けて行ない、その中の1歩兵大隊が憲兵機動隊を支援するために台北市松山区 永春坡駐屯地(その後憲兵装甲大隊の最初の駐屯地でもあった)に駐在していた。

独立装甲第95旅団の支援戦車第752大隊が台北市松山区永春坡駐屯地に駐在し、大隊本部の二両の戦車が警備総司令部に、2戦車小隊が松山空港の塔悠駐屯地と嘉興街駐屯地に駐在した。

1983年3月16日より、首都衛戍任務は陸軍歩兵第234師団から憲兵第206指揮部に移行された。本来中山北路(戦前の台湾神社表参道)の梅荘駐屯地 に居る憲兵第201指揮部は円山師団本部に進駐とされ、1996年指揮部が解散されるまで13年間ここで任務を遂行してきた。


(2)憲兵隊の衛戍(台北衛戍区、博愛および福山衛戍区、博愛特別警戒区)

1949年5月に「台北省垣警備指揮部」が創立され、そして台湾省警備旅団長が台北市戒厳司令長官、台北憲兵第4連隊長が副司令官を兼任した。

1951年、 雲林県 斗南 で定期訓練を終えた憲兵第8連隊が北上し、台北憲兵第4連隊と任務交代をした。

1956年12月、台南憲兵第9連隊が憲兵第202連隊に改編された後、台北へ進駐し、1960年5月まで衛戍憲兵隊の任務に就くこととなった。1963年12月から憲兵第202連隊が台南へ、憲兵第203連隊がその代わりに台北へ進駐した。1969年7月より憲兵第203連隊が「憲兵第202指揮部」に改編され、そこから現在に至るまで変更なく首都防衛を担当している。

1956年12月に警備総部が作った「楽成警備計画」のなかに「台北市中枢部安全維持において重要道路の臨時封鎖」が定められ、この道路封鎖任務は首都憲兵隊が担当することとなり、有事の際には一斉に台北市の重要な交差点において憲兵隊車両が道路の真ん中に二列横駐車し、戦闘配置を行なうようにしている。

1968年に福山警備区が創立される前に、蒋介石の士林総統官邸には1憲兵大隊および1憲兵装甲車小隊が「内衛憲兵隊」として勤務している。

憲兵隊が博愛特別警戒区(総統府周辺)のビリ屋上で監視勤務をしている。

1968年(昭和43年)1月21日,韓国軍人に偽装して同国に潜入した北朝鮮の武装ゲリラ31人が,朴正煕韓国大統領ら韓国要人の暗殺を企て,韓国大統領官邸(青瓦台)から数百メートルの路上で,民間人5人と警察官1人を射殺した。韓国当局により,武装ゲリラ31人のうち30人が射殺され,1人が検挙された。本事件は,朝鮮人民軍偵察局による犯行とみられている。台湾の国防部情報参謀室はこの事件を参考にし、3月1日に大直要塞ならびに士林官邸警備区を護衛する「福山警備区指揮部」を創立し、指揮官は憲兵副司令官が兼任する。その下に憲兵第216(憲兵第103戦車小隊を含む)、217、218など三つの大隊が管轄され、蒋介石士林官邸の警備に配置されている。

福山警備区の範囲とは、南は中山橋(旧明治橋)、西は百齢橋、北は朝瀬橋、東は剣南橋まで、士林官邸および大直要塞を中心と設定しており、官邸東側にある松園駐屯地の憲兵大隊が各橋に哨戒所を設置し、緊急の際には武装憲兵を出動し以上の橋梁を封鎖することができる。

演習状況の例

緊急事態を示すホイッスルの音が発されると、「軍事緊急事態!エンジンストップ!」の看板が哨戒所から持ち出され、道路の真ん中に立てられる。12名の武装憲兵が走り出し、タイヤをパンクさせるクギや戦車を脱輪させる地雷が路面に撒かれ、そして各兵士が隠れた場所で機関銃や自動小銃を構え、敵の来るを待つことになる。

同年3月20日、台北衛戍区がさらに「博愛(総統府)」、「福山(蒋介石官邸)」、「淡海(淡水河口)」の三つの警備区に細分されている。

衛戍憲兵第203連隊が台北憲兵隊の勤務を兼任し、そのなかに「博愛警備区指揮部」という特設組織があり、さらに国防部の作戦計画室第二処弁公室も「博愛警備区指揮所」が設置され、その下に憲兵第217大隊が指示を受け、警備・警護の担当をし、なかの1中隊は私服憲兵隊として勤務し、総統府周辺の警備をしている。

「淡海警備区」には 淡水 に駐在する「淡海歩兵旅団」が担当している。この「淡海歩兵旅団」とは第6軍の責任範囲である「第三作戦区」の「 関渡 師団」の所属部隊であり、淡水河の河口に沿岸警備を勤務する以外に、警備総部の指示を受け、衛戍任務を支援することになる。

昔の憲兵連隊においてその編成には、3~4個の憲兵大隊からなり、複数の県や市の憲兵隊、憲兵分隊(憲兵分遣隊)の勤務を担当している。その後憲兵連隊が「憲兵指揮部」に改編されても、各作戦警備区の作戦部隊とされることではなく、平時には治安維持、要人警護、官舎警備、軍人の取締りなど、戦時または演習の時には民間防空(凌雲計画)、民間防衛万寧計画)、機動警備(永安計画)などの主役として運用されている。

台北市へ入る光復橋の憲兵哨戒所。

憲兵隊が拡大編成される前には、陸軍野戦部隊と比べて人員編制や兵器ともかなり貧弱であるため、「衛戍」任務に当たって哨戒・警護・検問・パトロールなどの手段を通し早期警戒の役割を果たしている。

その主なやり方は台北軍の円山師団所属の憲兵中隊が三つの分隊を淡水河の三大橋(台北橋、中興橋、華江橋)に配置し、台北市へ入る人員や車両を監視・検問し、不審と思われるものがあれば、橋に駐在する陸軍歩兵小隊と工兵分隊を要請し、その場で遮断するようにしている。その他には、憲兵隊の情報捜査勤務を利用し、スパイや反乱者を早期発見することに加えて、首都の安全と政権の安定を確保している。

1981年の「台北衛安計画(首都台北の防衛計画)」が実行された後、「憲兵第202指揮部」が八個の憲兵強化大隊を有し、憲兵隊の主力部隊のほとんどは台北に配置されており、そして今もその影響が残され、半数以上の憲兵部隊は台北市内に駐屯されている。

1970年3月16日に台北の憲兵第203連隊が「憲兵第202指揮部」に改編され、台北憲兵隊の業務および「博愛警備区」の勤務が引き続きなされている。なお初代の指揮官は史蔵林上校(しぞうりん大佐)である。

一方、「福山警備区」の司令部は「憲兵第201特勤指揮部」に改編され、初代の指揮官は憲兵司令部の副参謀長官である何承先(かしょうせん)少将が兼任している。

憲兵司令部所属の台北新南駐屯地(すでに廃止、今は 大安森林公園 となった)にはひとつの憲兵大隊が置かれ、憲兵機動隊として運用されている。毎年の「衛戍演習」において、この憲兵機動隊と憲兵衛戍大隊ならびに台北保安警察第1総隊(警察機動隊)の合同訓練が行なわれている。 1975年に蒋介石が亡くなり、政権交代は1978年に息子の 蒋経国 が正式に大統領に就任した後、やや安定してきたところ、軍の警備体制も明らかな変化がみえてきた。この半世紀にわたり、初期に 士林蒋介石官邸)、 大渓(蒋介石別荘)、 陽明山蒋介石夏期官邸)に 駐屯していた陸軍福山警備区の支援部隊である 陸軍特戦第42総隊 は1979年に憲兵部隊に改編され、引き続き外環警備の勤務がなされている。1982年に参謀総長郝柏村(かくはくそん)が「衛安六号演習」を実行した後、「憲兵第205、206指揮部」を台北圏に進駐させた。【注】そして憲兵の第202、205、206の三つの「指揮部(憲兵隊司令部)」は1983年以前に陸軍野戦師団が担当した首都圏へ入るすべての道路および橋梁の哨戒警備任務を全面的に入れ替えた。首都圏内における陸軍野戦部隊はこうして完全にその姿を消した。その後憲兵第206指揮部は第202指揮部に合併された。ところで、この首都圏へ入る道路および橋梁の憲兵哨戒所は1996年以降に検討され、撤去された。

【注】憲兵第205、206指揮部の警備区は 基隆河 を境としている。
第205指揮部(本部は台北県 林口 の林上駐屯地)は基隆河南岸のエリア、主に 淡水河 の八つの橋および 景美山 の三つのトンネル、高速道路1号線の三ヶ所(泰山、三重、承徳)の哨戒警備所を担当している。
第206指揮部(本部は台北市 臥竜街 の大我駐屯地)は基隆河北岸のエリア、主に一般道路の哨戒警備所の担当であり、なかにはひと小隊を第201指揮部に支援し、七海官邸(蒋経国官邸)の「中衛区」の道路哨戒所を担当している。

淡水河の橋には憲兵隊が守備担当である。

1981年2月11日に、憲兵第205指揮部所属の憲兵第319大隊が台北市 士林区 の成功駐屯地へ進駐し、高速道路1号線の料金 所(泰山汐止)、 景美山 のトンネル(懐恩、辛亥、荘敬)、 淡水河 の橋梁(忠孝、中興、華江、光復、華中、中正、福和、秀朗)など台北盆地の主な入り口に本来台北万華の陸軍東園第8歩兵大隊が警備担当する哨戒所(一ヶ所1小隊)にそれぞれ1憲兵分隊を派遣し、監視検問の勤務を行なうようになった。

1982年3月18日、参謀総長郝柏村が 「台北の衛戍任務には憲兵隊が担当すべきだ!【解説】」 との軍令を出した。同年8月16日から、憲兵第205、206指揮部より八つの憲兵大隊が直ちに総統府の周辺道路である博愛路および他の外環道路の警備任務に配置された。

台湾とその周辺、赤枠の台北周辺は別図で表示される。
  
台北周辺の広域地図、画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大図が表示される。

もともと憲兵隊ひと大隊の編成は320人であったが、この任務のために八つの憲兵大隊が強化大隊に改編され、本来ひと分隊9名の編制を12名まで拡大し、ひと憲兵強化大隊には431名の兵力を有している。

そして本来の「博愛」、「福山」ふたつの衛戍区はさらに「博愛衛戍区(総統府)」、「福山衛戍区(蒋介石官邸)」、「福山衛戍分区(蒋経国官邸)」に変更され、憲兵第201、202指揮部の責任区を明確に示してきた。

「憲兵第202指揮部」は「博愛衛戍区」の司令部とされており、この博愛衛戍区のなかに総統府、国防部の参謀本部などの中枢官舎をさらに「博愛特別警備区」とし、国防部総務局の警衛組がその警備の責任者で、担当するのは国防部 憲兵第211大隊 および総務局 憲兵第229大隊 第4中隊である。また、台北憲兵隊の 興徳里 駐屯地(元衛戍師団砲兵司令部)には四つの憲兵大隊が予備兵力として配置された。

福荘駐屯地にある「七海内衛区(蒋経国官邸)指揮所」には「福山衛戍分区」の司令部、「憲兵第201指揮部」の第225大隊(内衛大隊)本部は中衛区の司令部とされ、そして「憲兵第206指揮部」の1憲兵中隊が「七海中衛区」の道路警備(剣潭 憲兵小隊から西湖憲兵小隊の間)に配置された。

1983年3月16日より、最後の陸軍部隊である内衛警備の陸軍第234師団(円山師団)は台北市から撤退され、憲兵隊は全面的に台北衛戍任務を任されている。【注】

【注】同年の9月15日に衛戍歩兵師団が戦略拠点である陽明山擎天崗の警備任務は「憲兵第206指揮部」に渡した。


1987年に38年間にわたる台湾の軍事戒厳令が解除され、 憲兵司令部は陸軍総司令部から48両のV-150装輪装甲車(本来は陸軍第249師団第184大隊に所属)を受け取り、 最初の憲兵装甲大隊が創立された。

1992年に動員戡乱(かんらん)時期が中止されることにより、警備総部における台北衛戍司令部の設置のその法律根拠がなくなるため、1992年より「台北衛戍指揮部」は憲兵司令部の警務処に配属され、引き続き首都防衛の任務を行なっている。

◎ 台北衛戍区に重大テロ事件が発生した場合、国防部の指示のもとで憲兵司令部が事件対策本部をすばやく設置させ、憲兵司令部を対策本部の最高組織とし、台北市の軍、憲兵、警察を統合運用できるような体制を作っている。

◎ 戦争や反乱事件が起こり、戒厳令が実施される場合、台北衛戍司令(憲兵司令長官が兼任)は戒厳司令官として、衛戍任務統合センターを設置する。そして衛戍区内の軍、警察、消防、特高、民防など組織の管制官を召集し、統合調達することにより、政府中枢部の安全を守る。

1995年6月に台北市光復橋の憲兵哨戒所で新米憲兵が殺され、自動小銃が奪われた事件をきっかけに、衛戍方針が大幅に変更された。のちに台北周辺の憲兵哨戒所のほとんどが撤去され、その代わりに憲兵隊の機動パトロールを増やして、首都警備勤務を行うようになった。そして昔から憲兵哨戒所が目に入れば、首都圏にたどり着いたという上京感覚は今では台湾国民の思い出として残るしかないのである。

背景音声:101憲兵隊無線通信
「封鎖!封鎖!○○○封鎖進行中!○○時○○分に二トン半の軍用トラックを発見、ナンバー『軍‐○○○○』、武装乗員20名搭載、検問拒否、○○から台北衛戍区へ侵入!」「封鎖!封鎖!○○○封鎖進行中...封鎖!封鎖!○○○封鎖進行中!!...」

 
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