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戦後台湾における憲兵隊の沿革

文:台湾憲兵OB会

     戦後まもなく、国民政府がまた中国大陸にいた時代の1946年に陸海空軍それぞれの司令部を総司令部と改称し再編するように指示した。 そのため1947年元旦に憲兵司令部が憲兵総司令部に再編成し、総兵力六万五千人余りにのぼって、中国大陸時代においての国民政府憲兵部隊の最盛期を迎えた。

     最初に台湾に上陸した国府軍の憲兵部隊は憲兵第九連隊のひと小隊約34名、1945年10月5日に重慶市に設立した台湾警備総司令部の先遣部隊とともに米軍機で10月5 日に台北に降り立ち、その主な任務は旧日本軍を促し、国府軍の上陸の準備や接収する武器と営舎の精査が挙げられた。

     三日後の10月8日に、憲兵第四連隊(第2大隊欠番)の第9中隊が何承先中隊長の指揮のもとで、106名の憲兵を連れて台北西北部の淡水に上陸した。10月24日に連隊本部と第1中隊も淡水から上陸し、300名以上の憲兵が台湾全島に駐在するようになった。

     台湾警備総司令部が在台日本人の引き揚げにおける身元と荷物検査を憲兵隊に実施するように命じた。このため、第4憲兵連隊が基隆港と高雄港に運輸司令部を設け、それぞれ一中隊200名あまりの隊員が各埠頭の桟橋にこの任務を遂行した。

     憲兵第九連隊は翌年(1946年)初めに南京へ引き揚げた、国民政府の台湾地域における憲兵勤務は交代した憲兵第四連隊に任された。

     憲兵第四連隊が軍紀維持の勤務以外に、警察の治安確保も支援していたが、台湾人との言葉の壁を実感し、各地の地区憲兵隊に一般民衆向けの無料中国語教室を設置した。

     1946年12月29日に、佐世保行きの日本人引き揚げ船「台北丸」に日、英2ヶ国語ができる憲兵4名が同乗し、船上の保安勤務を果たした。これは憲兵隊の最初の海外勤務とされている。

     1947年に 「二二八事件」が 勃発し、3月8日午後3時に「閩台監察使」楊亮功の指揮のもとで憲兵第四連隊第3大隊と憲兵第二十一連隊第一大隊約 二千名の兵力が中国福建省から基隆に上陸し、無差別攻撃しながら台北の連隊本部(台北市大竜峒稲江憲兵連隊)と合流した後、連隊長張慕陶上校 (大佐)の指揮下で新竹より北の範囲における市町村の掃討鎮圧任務を強行した。

     1947年10月、中国江浙省に訓練中の憲兵教導第一連隊が上海経由で台湾に上陸し、10月31日から台湾花蓮吉安郷で訓練が再開された。

1948年8月に憲兵第四連隊が台湾で憲兵隊員150名を募集し、これで最初の台湾籍憲兵が誕生した。

     1949年の冬から情勢が一変し、中国西南部の戦況の悪化により、国民政府は台湾まで撤退してきた。各憲兵部隊のうち、兵力を保ったまま台湾へ移動してきたのは、空中輸送による中国雲南省からの憲兵第十八連隊、広州から海南島経由の憲兵第一、第三、第七連隊及び第十七連隊の一部と、上海からの憲兵第九連隊のみである。

     1949年3月1日、憲兵司令部は台北で再建された。場所としては現在台北の涼州街、本来の憲兵第四連隊本部(戦前の台北更生院)であった。同時に中国大陸の憲兵東南指揮所も自然に解散された。当時の憲兵司令官黄珍吾将軍が就任まもなく憲兵部隊の再編を着手した。元々台北駐屯の憲兵第七、第九連隊はそのまま保留し、憲兵第一、第三連隊を合併して憲兵第一連隊とし、憲兵第十八連隊の中から1大隊を抽出し憲兵特務大隊とし、中国海南島からの憲兵第十七連隊を解散し他の憲兵部隊に補充とした。再編後の編成は憲兵第一、第四、第七、第八、第九など計5個の憲兵連隊9500名の兵力と特務大隊、通訊隊、軍楽隊、特高組などがある。

台湾における初代の憲兵司令部(1949-1957)、戦前はアヘン中毒者の更生施設の「台北更生院」であった。写真は1931年に撮影したもの。
二代目の憲兵司令部(1957-1969)、場所としては現在の中正記念堂、旧日本軍台湾歩兵第一連隊の駐屯地。
三代目の憲兵司令部(1969-1981)、国立台湾大学北側に新生南路通りに面した「憲光駐屯地」であった。道路開拓によって撤去された。
四代目の現役憲兵司令部(1981~)、ほぼ30年間使用してきた。
呉石事件の共犯者朱諶之、聶曦が台北憲兵隊第4連隊によって逮捕され、馬場町で処刑された。
旧三重埔憲兵学校大門
大安公園の前身は憲兵隊の新南駐屯地である。
美麗島事件:憲兵隊と民衆が高雄の繁華街で衝突した。
憲兵訓練センター

     1949年五月、中国浙江省の舟山島防衛司令部の憲兵第九連隊第二大隊もついに撤退し台湾まで移転してきた。この部隊は台北の三重埔を本拠地におき、憲兵幹部訓練班として再編され、憲兵司令官黄吾珍将軍もその班主任と兼ねていた。この時期から、台湾情勢を安定させ、中国反攻の体制をと整えるため、憲兵隊が共産党反乱者の摘発を盛んに行ってきた。例えば海辰丸の反乱事件、共産党台中草屯支部摘発、装甲部隊スパイ潜伏事件、共産党台湾労働組合南部支部摘発、台北の町内自治会共産党潜伏事件、共産党工作委員会銅鑼支部摘発、共産党新竹社会主義大同盟摘発など、記録上に合計131名の共産党スパイが憲兵隊によって検挙され、台北の馬場町(現在の青年公園)で処刑かされた(但し、これらの事件について冤罪かどうかはいまだ定説はない)。この実績により、蒋介石が憲兵勤務令(憲兵条例)を交付し、憲兵隊の軍事司法及び一般司法警察権の根拠となった。

     1950年11月に台南の憲兵第八連隊が斗南駐屯地へ6ヶ月の集中訓練をし、翌年に台北の憲兵第四連隊と交代し、首都防衛憲兵隊とされていた。

     1952年5月7日、中華民国東京憲兵隊(隊長李建武大尉)25名の隊員らが日本から引き揚げた。

1953年7月1日、元憲兵幹部訓練班が憲兵学校に改編された。

     1954年1月に各野戦憲兵隊からひと中隊(20人)を編成し、王昇大佐の指揮のもとで国連軍の一員として、 朝鮮戦争における中国軍の捕虜14000人を台湾まで連れてきた。

     1954年に軍部がアメリカ軍の編制を参考とし陸軍部隊を再編する「天山計画」が行われ、そして各部隊の中に独立憲兵部隊の創設をしたのもこの時期からである。 ほかに各司令部警備大隊も憲兵独立大隊(憲兵第1、2、3、5、7、10大隊)と改編した。

     1956年三月一日、憲兵司令部は再び改正し、五つの憲兵連隊のうち第一、第七連隊を解散し、憲兵第八連隊を第二〇一連隊、憲兵第九連隊を第二〇二連隊(その下に第211~第216大隊、第221、第222大隊が配属されていた)と改編し、そして4月30日に憲兵第四連隊も解散された。9月に憲兵訓練大隊(新兵訓練大隊)が新南駐屯地(現在の大安公園)に設立された。

     一方、1957年に憲兵司令部が旧日本軍台湾歩兵第一聯隊駐屯地(現在の中正記念堂)に 移転してきて、1962年から憲兵第216大隊、第二〇一連隊と第二〇二連隊それぞれひとつの大隊ならびに憲兵訓練センター六つの大隊を新しい憲兵第二〇三連隊に改編した。 その後いくつかの変更もあったが、この時期の再編が現行する台湾憲兵司令部の基盤となっている。

1964年に憲兵新兵訓練大隊が台北市内の新南駐屯地から、台北県泰山郷の泰安駐屯地へ移転してきた。

     1966年に当時の国防部長官蒋経国(蒋介石の長男)が「忠と貞を肝に銘じ」と憲兵隊へ訓示する。そこから 「忠貞」二文字が憲兵隊の部隊スローガンとして掲げられるようになった。

     翌年の1967年に士林要塞の「福山警衛区指揮部」が蒋介石親子官邸の警護司令部として設立され、所属の憲兵第216、217、218大隊が増員された。これは憲兵第二〇一指揮部の前身とされてきた。

     1969年空襲対策のため、各軍司令部が総統府周辺から疎開することになり、憲兵司令部は憲光駐屯地(現在国立台湾大学の北側)へ移転した。

     1970年より、軍部が「嘉禾計画」を実施し、陸軍の「連隊」が廃止され、「旅団」に改編した。憲兵隊もこの計画により、 第二〇一~第二〇四の4つの「指揮部(憲兵隊司令部)」がそれぞれの地域に設置され、その下にいくつかの憲兵大隊が所属するような編制になった。
第二〇一指揮部:特別警衛(部隊編成史元首警護 を参照)司令部。
第二〇二指揮部:元憲兵第二〇三連隊、首都防衛憲兵隊司令部。
第二〇三指揮部:元憲兵第二〇一連隊、台湾中部(苗栗~嘉義)の憲兵隊司令部。
第二〇四指揮部:元憲兵第二〇二連隊、台湾南部(台南~屏東)の憲兵隊司令部。
憲兵学校もこの年に台北県三重市から台北県五股郷へ移転し、現在まで至る。

     1972年にパレスチナ解放人民戦線や日本赤軍による一連のハイジャック事件や空港内での無差別乱射事件の影響を受け、憲兵隊が各指揮部に「憲兵反突撃隊(憲兵テロ対策部隊)」を設立した。

     1979年7月から1980年三月の間、1977年の 「中壢事件」 により台湾海峡の情勢が変化し始め、国防部もこの現状を対応し、「靖安一、二号専案」(専案とは特別条例を指し、以下同)を実施した。よって、 特殊作戦第一~四総隊から陸軍第三十一、第四十二、第十三、第二十四総隊に改編した部隊を憲兵に編入し、保安機動隊として統括する憲兵第二O五指揮部が設立された。 そしてこれらの部隊が年末の 「美麗島事件」 の鎮圧任務に参加した。

     1980年に「靖安三号専案」により憲兵二O六指揮部が台中の清泉崗駐屯地で設立し、そして陸軍第五十三空挺旅団を憲兵大隊に改編し、合計21個の憲兵大隊が新設された。 それぞれ二〇一から二〇六指揮部に所属し、憲兵総兵力が38大隊にのぼり、台湾の憲兵隊の最盛期を迎えた。

     1977年に各国のテロ対策特殊部隊を参考し、元「憲兵反突撃隊」と「憲兵特戦総隊」から優秀な隊員を選抜し、半年の集中訓練をした後、翌年に現在の憲兵特殊部隊「 憲兵特種勤務隊(MPSSC)」が設立された。

     1981年八月、憲兵司令部が台北市新生南路の憲光駐屯地から現在の民族東路の忠貞駐屯地に移転し、憲光駐屯地は都市計画により台北市政府に回収され、現在は辛亥路となった。

     1983年に憲兵訓練センターが台北の泰安駐屯地から林口の慧敏駐屯地へ移転し、現在に至る(現在の名前は憲兵学校林口分校と改称されている)。同年に憲兵二〇六指揮部が台北防衛の責任に任され、台中の清泉崗駐屯地から台北の馬明潭駐屯地へ移転してきた。

     1984年に台湾の防衛体制が新たに検討され、これにより本来の警備総司令部における車両兵器が憲兵隊に渡され、 各憲兵指揮部に憲兵重兵器中隊と特殊車両中隊が設立された。また、 憲兵第二〇六指揮部と所属の4つの憲兵大隊、 野戦憲兵隊の第233、235大隊がこの時期に撤去された。

     1987年憲兵司令官周仲南将軍の在任中に「靖安四号」計画が実行され、台湾の民主化運動の活発化に伴う民衆集団暴動事件の多発により、 元々憲兵大隊ひと大隊につき3中隊であった編成を4中隊に変更し、憲兵の編制がさらに拡大した。合計26個の地区憲兵隊、30個の憲兵分隊(分遣隊) 及び35個の野戦憲兵中隊がこの再編により兵力が増強された。その他陸軍部隊に1軍につき1野戦憲兵大隊、憲兵訓練センターに2大隊、憲兵装甲大隊などの増設もこの時期であった。

     1991年に保安警察(警察機動隊)が設立され、さらに各地の警察局や派出所の増員が8万人に達し、 また「動員戡乱(かんらん、要は中国との戦争状態)」の終結により軍の影響力が消退し、 憲兵隊も国家安全以外の内政業務から手を引いた。1992年から憲兵隊は「忠愛、憲精、精実、精進」などの改編計画により、その兵力を次第に縮減し、 最盛期の四万人から現在の一万七千人になっている。




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