鹿窟事件

鹿窟事件は白色テロ時代初期に起きた台湾最大の冤罪事件といわれており、この事件により台北県石碇郷(せきていきょうごう)の玉桂村(ぎょくけいそん)は完全に廃村され、地図から消去された。

当時の公文書によると、台湾は七つの共産党ゲリラが潜伏し、鹿窟山間部の「北区武装基地」にはその大本営として存在しており、軍事面から見ても、ここは台北盆地と基隆港の境に位置し、攻めにくく守りやすい絶好の地形を有している。

1952年12月28日、台湾省議会議員選挙投票日の夜に一名の私服警官が突然失踪することをきっかけに「警備総司令部」がこのエリアの戒厳令を実施し、翌日朝明けに一万名余りの軍隊と警官隊が村を包囲し、一斉に朝出かける村民を逮捕し始めた。最初に捕まった120人余り(最年少は3才)の村民は四十坪もない軍の臨時指揮所である「鹿窟菜廟(お寺)」に拘束され、二十数日間の厳しい拷問を受けたうえ、さらに多くの関係者が巻き込まされた。その後、逮捕活動は四ヶ月間も続きながら台湾全域に広がり、最終的に四百人余りの逮捕者にのぼった。

この事件に逮捕された村民はのちに軍事裁判に移送され、そのうち35人が処刑され、小学生を含む98人が少なくとも七年以上の有期懲役にかけられた。無事に釈放されたのはただ12人のみである。見つかった武器は拳銃一丁と弾二個(なかに一発は不発弾)、手作り爆弾172個と公文書が示されている。

しかし当時の公文書には不明な点が多く、近年の研究によると、この貧しい村は少数の農民以外に、ほとんどは字も読めない鉱山労働者であり、数多くの爆弾は鉱山現場から盗められ、売れると彼らが考えていた。中国大陸を失ったばかりの国民党政権は共産党恐怖症に陥って、共産主義を宣伝できると国民党政権が考えた知識層はごく一部のみでありながら、そのほとんどは二二八事件の避難者で身の安全確保だけで精一杯とされ、武装革命ほどの余裕あまりないと思われている。

1998年に台北県文化センターに「鹿窟事件調査研究」の本が出され、初めてこの冤罪事件を語る出版物とされている。そして2000年12月に光明禅寺(当時の村民らを拘束するお寺)の近くに記念碑が建てられ、48年間も隠された歴史がやっと世に知らされるようになった。

Wikipediaより


蔡徳本著『台湾のいもっ子』(集英社)を読了。戦後台湾本省人の悲劇のストーリーです。いわゆる「白色テロ」で訳もわからずに捕らえられ、その後奇跡的に無事生還した人の物語。主人公が捕らえられたのも普通の民主主義国家では考えられないような事ですが、当時の中華民国は民主主義の看板を掲げているとは言え、軍政による蒋介石の独裁国家だったのです。主人公が看守所、監獄で出会った多くの人の、それぞれの悲劇は信じられないものばかり。「戒厳令」が1987年に解除になり、臨時に憲法に優越する「動員戡乱時期臨時条款」が廃止になったのが1991年。つい最近までは台湾も恐怖の土地だったわけです。やっと平和になったところで、蔡徳本氏が当時を思い起こして書いたのがこの作品。

信じられない悲劇とは?たとえば、

・窓ガラスにヒビが入り、弧線を描いたヒビの部分に星型に切った5枚の紙を貼ってガラスを補強した。それが中共の五星旗に似ているというだけで捕まった。判決は10年徒刑。

・旧友に金を恵んだところ、偶然その人が共産党員だった。本人は恵んだものなのですっかり忘れていたが、その彼はいつか返すつもりで几帳面に手帳につけていた。それが証拠で捕まった。判決は10年徒刑。

・活版屋の小僧が、活字を拾い間違えてとんでもないビラを印刷して配ったために捕まった。「反共抗俄」(ロシアに抵抗せよ)を「反共投俄」(ロシアに投降せよ)とたった一文字の間違いにもかかわらず。判決は死刑銃殺。

・寒村に特務に追われた共産党員の青年たちが逃げ込んだ。親切な村人は彼らをかくまった。彼らも村人と共に田畑で働き、村人も彼らに好感を持つようになった。彼らは村人たちを共産党員に吸収していった。ある日、村は軍隊に包囲され、一度に100人くらい捕まった(鹿窟事件)。村の青年団の中堅の若者(享年19)は死刑銃殺になった。

・国民党籍の特務を殺したため追われていたという、共産党員の兄が隠れ潜んでる山奥に逃亡資金としてのお金を届けに行ったため、当時小学5年生の少年が捕まった。判決は死刑銃殺。享年13。

その他にもたくさんの悲劇が書かれていました。

捕らえられれば、まずは台北の看守所(現在の青島東路にあった)に送られます。そこの軍事法廷で判決が言い渡されます。有罪(徒刑、死刑)の場合はすぐに新店安坑の軍人監獄へ。死刑はただちにそこで執行されました。徒刑の場合も新店で服役します。判決で無罪だったもの、または、長年にわたる服役が終わった者は、台北縣土城の感訓所へ。感訓所とは洗脳の場所。孫文・蒋介石の思想や著作、共産党の暴政についての研修討論が毎日のように行われました。原則として一期三年。成績が悪ければ二期、三期とやらされたそうです。

引用場所:http://masakim.hp.infoseek.co.jp/Note/2001july.html