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郝柏村の軍事政策における台湾憲兵隊の役割変化


日本語担当:DDS



  台湾の法律では、 参謀総長 の任期は2年に定められているが、郝柏村(かくはくそん、中国江蘇省出身、1919年~)は八年間も務めてきて、台湾史上もっとも任期の長い参謀総長(1981~1989年)である。このため、憲兵隊の役割は彼の軍事政策により左右され、いまだその影響が残されている。

郝柏村が在任中に憲兵隊を戦闘支援兵科から戦闘兵科の体制に変更し、訓練内容も憲兵勤務以外に戦闘歩兵の戦技を加え、 これは当時80年代入隊の憲兵隊OBにとってその辛さは海兵隊並みと思っている。当時の国民党政権の軍部には、中国、海外の台湾独立団体、 島内の国民党批判組織この三者を国家安全・政権安定の主な敵と設定し、軍内部にはその頃にアメリカ滞在の 許信良 (きょしんりょう)氏が書いた島内武装テロの施行に関する本である「都市遊撃」を中心としてその対策の考案し、憲兵隊の訓練に取り入れた。その結果、憲兵隊は伝統的な軍警察勤務以外に、政治中枢部の安全のも担当するようになった。

60年代(1965~1970)に蒋介石の侍従長を務めてきて、長期間に軍部のトップに君臨した郝柏村は、政権後継者である 蒋経国 総統に蒋介石みずから設計した総統の絶対支配者制度に対して影響力を入れようとした。彼はまず官邸警備を担当する「 連合警衛安全指揮部 」の指揮官を副侍衛長から自分の子分である侍衛長の周仲南(しゅうちゅうなん、中国江蘇省出身、1979~1985)に変更させ、そこから参謀本部が総統の身の安全に関与できるようになった。

そして憲兵隊を戦略単位まで拡大させ、陸軍の衛戍師団を首都防衛の役割から外させ、全面的に憲兵隊が入替させようにし、 さらに憲兵司令長官を子分の柏隆鑎(はくりゅうき、1984~1985)と周仲南(しゅうちゅうなん、1985~1989)に任命した。結局本来別々の組織が担当する首都防衛( 警備総司令部 )と総統警護(連合警衛安全指揮部)を一元化にし、実行する部隊はすべて憲兵隊が独占させた。

1983年4月に首都の台北市内に2件の政治目的の新聞社爆弾テロが起き、これをきっかけに本来は警備総司令部が行う軍・警察の首都治安統合会「警安会報」を参謀総長みずから主催し、そして首都警察も参謀本部がその主導権を握るようになった。

一方、「武装部隊の人員・車両・武器が台北市内へ進入する際に、事前に警備総司令部の認可を得なければならない」との訓令は1960年代の 湖口兵変(装 甲部隊反乱事件)前後に定められたが、事件を起こらないかぎり、例えば部隊の移動で台北市を通過するほうが遠回りなくで済むなどのような場合のほとんどは部隊長が士官学校先輩後輩の人情を利用し、もみ消されたケースが多かった。郝柏村が参謀総長に就任後、違反した部隊長本人だけではなく、上司までクビさせるにし、この訓令がやっと厳しく実行された。

1988年に蒋経国総統が在任中で亡くなり、郝柏村は軍内部の士林官邸派(宋美齢氏の支持者)がクーデターを起こす恐れを防ぐため、この訓令がさらに徹底的に実施されるようになった。 例え本来台北市内に駐在するわずか残りの陸軍衛戍支援部隊(歩兵大隊、工兵中隊、戦車大隊)も完全に参謀総長の認可がないかぎり動けなくなってしまう。そして彼は憲兵司令長官の周仲南に李登輝総統官邸警備にさらにひと憲兵中隊の増援兵力を追加するように命じ、新総統の安全ならびに監視を強化させた。

1986年に38年間にわたる台湾の 軍事戒厳令 が廃止され、台湾人の政治参加が動き始め、国民党政権に対抗する民主化運動が活発化になった。国会全面選挙や 大統領の直接選挙 ができる直前に警察機動隊の予算不足により、郝柏村は憲兵隊を警察機動隊として運用することに大賛成し、結局その頃の憲兵隊は機動隊訓練の課目がほとんど占めるようになった。ちなみに当時の徴兵された憲兵隊兵士ひとりの給料は警察ひとりの1/10にすぎなかった。

首都を単独の軍事警備管制区にした台湾は、1991年に中国との戦争状態を終結し た(動員戡乱の解除)後、 軍人が該当する警備区の政治・社会・経済・学術などの分野に主導権を握る現象がだんだん無くなったが、軍部の伝統思想にはいまだ軍のクーデターと市民反乱を内部の政治安定にとって最大の危機と考え、有事の際には憲兵司令部が台北市の警備権を主導するように法律的に定められている。

だから憲兵隊が衛戍任務に担当するには、主に外敵作戦ではなく、元首警護の任務、 憲兵調査組(特高憲兵)や武 装憲兵の市内警備を通し、市民にその政治的影響力をアピールすると考えられる。これは軍人が社会の支配権が薄くなってきた今の台湾に、他の組織が憲兵隊その仕事内容を取り替えるの難しさを利用し、さらに憲兵司令部もかなり各憲兵OB団体の政治活動を応援することにより、その政治影響力を保っているとの現状である。

要するに郝柏村は八年間の参謀総長任内に憲兵隊の中枢内部に対する保護・監視権限を強化させ、本来異なる組織が担当する首都防衛と元首警護勤務を憲兵隊が独占することに通し、参謀本部が効率よく統制するようにした。その後、彼は1987年の軍事戒厳令の廃止直前に新しい「国家安全法」の制定する際に、警備総司令部および憲兵隊とも法定の治安組織と定めさせた。この条文により、軍部は依然として内政参加権を有し、参謀本部の政治的影響力は保たれている。1991年に動員戡乱の解除後、憲兵司令部はそのまま警備総司令部の仕事を受け続け、結局今台湾の憲兵隊の任務内容はその時の名残である。


あとがき

1991年6月、李登輝大統領は郝柏村を行政院長(首相相当)に指名した。このときシビリアン・コントロールの原則に従って郝柏村を軍から除役させたため、 彼の軍に対する影響力が弱まり、軍の主導権も李登輝が握ることになる。1993年に郝柏村が行政院長を辞任した。 (Wikipediaより) そして1996年、台湾史上初めての総統直接選挙において、郝柏村は国民党から脱退し同じ国民党を脱退した総統立候補の林洋港とペアーを組んで国民党保守派の代表者として総統選に出馬したが、14%の得票率で惨敗し、政界から引退した。

 
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