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総統官邸警衛室

by:DDS

士林官邸


蒋介石の士林官邸、写真は本館建物。

士林官邸公園

士林官邸
昭和10年、士林園藝試驗分所を見学する台北帝国大学理農学部の学生たち。
本来は明治41年(1908)に台湾総督府中央研究所より設置され、総面積は約9.8ヘクタールを有した士林園芸試験支所の用地である。戦後は士林園芸試験所となり、 1949年に7棟の外賓招待所が敷地内に建設された。なかの西洋庭園は終戦直後に園芸試験支所の日本人技師米澤耕一氏が後継者育成のために残され、 一年以上かけて造ったものである。1950年に5.2ヘクタールは蒋介石が来台後に官邸用地として変更され、 1950~1964年の間に蒋介石と夫人の宋美齢がここで過ごし、 1996年に当時の台北市長が庭園を一般開放するまでの46年間、この庭園は完璧な「秘密の花園」であった。

人生の前半を戦乱で過ごし、何回か敵に追い詰められる経験をした蒋介石は、台湾まで逃げ込んで政権再建にした時、総統府は旧台湾総督府のままを利用したが、官邸は台北平野のど真ん中に在る台湾総督官邸を避け、脱出しやすい北の山間部と平野部の境に位置する園芸試験所を採用した。

現在公開されている「士林官邸公園」を示す案内地図は下の通りである。赤い点線は本来の官邸敷地とされ、その他は園芸試験所用地であり、両者の間には電気鉄網が設置されていた。また、園芸試験所の部分には蒋介石ご夫妻専用の教会や施設が散在しているため、過去このエリアは全面的に立ち入り禁止とされ、総統官邸の付属庭園といっても過言ではない。

官邸時代には「士林警衛室」の100人、「警衛隊」の200人と「内衛憲兵中隊」の100人が官邸敷地内に厳重警備していた。

官邸公園案内地図
地図の丸数字やアルファベットは、クリックで写真付き説明が別ウィンドウに表示される。

赤い点線は本来の官邸敷地、青い点線は2011年1月1日に初めて公開されたエリア
青い文字は警備関連施設
1. 官邸大門
2. 守衛室(旧衛兵司令室)
3. 旧受付室および給油所
4. 車庫
5. 旧交通係り
6. 軽食売店(旧内衛憲兵中隊兵舎)
7. 露天ステージ(旧バスケットボール場)
8. 旧警務組(課)
9. ロータリー
10. 旧兵舎(内衛組)
11. 慈雲亭
12. 招待所
13. 官邸本館
14. 旧警衛隊本部
15. 旧侍従組(課)
16. 倉庫
17. 旧内衛区隊本部
18. 内花園
19. 中花園
20. 外花園
21. バラ園
22. 芝広場(旧野菜畑)
23. 西洋庭園
24. 中国庭園
25. 温室
26. 苗畑
27. 果樹園
28. 園芸管理所
29. 園芸展示館
30. 蘭の栽培室
31. 南入口・守衛室
32. 新蘭亭
33. 八角亭
34. 凱歌堂教会 35. 西入口(椰子並木道)
36. 干城四村
37. 観賞用植物栽培室

J. 第77トーチカ
K. 福林路前哨所
K. 福林路前哨所 J. 第77トーチカ 38. 園藝管理所所長宿舍 37. 観賞用植物栽培室 36. 干城四村 35. 西入口(椰子並木道) 34. 凱歌堂教会 33. 八角亭 32. 新蘭亭 31. 南入口・守衛室 30. 蘭の栽培室 30. 蘭の栽培室 29. 園芸展示館 28. 園芸管理所 26. 苗畑 27. 果樹庭 25. 温室 26. 苗畑 25. 温室 24. 中国庭園 23. 西洋庭園 22. 芝広場(旧野菜畑) 22. 芝広場(旧野菜畑) 21. バラ園 20. 外花園 19. 中花園 18. 内花園 17. 旧内衛区隊本部 16. 倉庫 15. 旧侍従組(課) 14. 旧警衛隊本部 13. 官邸本館 12. 招待所 12. 招待所 11. 慈雲亭 10. 旧兵舎(内衛組) 5. 旧交通係り 10. 旧兵舎(内衛組) 9. ロータリー 8. 旧警務組(課) 7. 露天ステージ(旧バスケットボール場) 6. 軽食売店(旧内衛憲兵中隊兵舎) 5. 旧交通係り 4. 車庫 3. 旧受付室および給油所 2. 守衛室(旧衛兵司令室) 1. 官邸大門


士林官邸その警備組織の推移

早期の士林官邸の警備体制にはいくつかの改正があって、1960年から1970年の10年間は代表的なものとされている。警備体制の改正は”総統府組織法修正案”に基づいたもので、以下はその経緯である。

1952年:「総統府侍衛室」には「侍衛長」と「警衛室主任」とも中将が就く職務である。侍衛長は武官室と渉外業務(国賓、公賓、大使など)を、警衛室主任は官邸警備と行政業務を掌る。その他、佐官の「侍従武官」4人、「侍衛官」と「警務官」32人、尉官の「侍衛官」と「警務官」24人、尉官の「侍衛」42人、また参謀、副官などを合わせて119名の定員が定められている。

1956年:侍衛長室(侍衛長兼ね警衛室主任)の下に「内衛室主任」と「外衛室主任」(共に少将)が設けられた。

1960年:侍衛長(当時は胡炘)の警衛室主任兼任制をやめて、その代わりに第一副侍衛長が「警衛室主任」を兼任し、特別警衛勤務の責任者としている。その下の「外衛室主任」と「内衛室主任」が警衛勤務の指揮官とされ、側近警護人員を含めて95人の編成となっている。さらに200名の兵力を有する国防部警衛大隊は「侍衛室」に属され、内衛副主任の直接指導を受けている。第二副侍衛長が警衛室の行政主任とし、行政業務以外に、外側組織の先頭勤務指導、行き先の安全確認や、情報治安との連携を担当する「警務組(課)」、「特警組(課)」を管理している。


蒋介石が移動する際の集団である。すぐ後ろの軍服姿は「侍衛長」で、その他の中山服姿らのは官邸警衛室の側近警護人員である。


士林官邸の警備体制

士林官邸の警備体制は、玉ネギみたいに内側から「侍衛区」、「内衛区」、「中衛区」、「外衛区」の4層からなっている。官邸本館とその周辺を「侍衛区」、官邸敷地内を「内衛区」、官邸を中心に半径1~2キロのエリアを「中衛区」、そして「中衛区」に入る主な連絡道路を「外衛区」とされている。

「官邸警衛室」は、官邸警備を担当する組織であり、その軍職人員のほとんどは憲兵出身者である。その下に「内衛主任」と「外衛主任」が設けられ、「内衛主任」は「侍衛区」と「内衛区」、「外衛主任」は「中衛区」と「外衛区」(主に中衛区)それぞれの警備指揮官とされている。「内衛主任」の下には「侍衛区」勤務の「侍従組」と「内衛組」、「内衛区」勤務の「警衛組」と「衛兵司令室」に分けられている。


侍衛区(側近警護)

「侍従組」とは、警護よりも蒋介石の身の回りの世話が主な勤務の部署であり、士官幹部を「侍従官」、または「副官」と称している。 「侍従武官(陸海空軍大佐各一名)」の「武官室」もここに属している。これに対し、「内衛組」とは側近警護の部署であり、スタッフを 「侍衛官(中佐~中尉)」または「侍衛(少佐~少尉)」と呼ばれ、官邸内だけでなく、 蒋介石が外出時にも24時間に彼の周囲に張り付いて警護しなければならない勤務がなされている (いわばSP)。 この蒋介石の側近である「侍従組」と「内衛組」を合わして俗に「侍衛組」といわれている。「侍衛組」以外の官邸警備関係士官幹部には、 「警務官」と称し、それぞれ「内衛区」の「衛兵司令室」と「警衛組」、「中衛区」の「警務組」と「警安組」に所属されている。なかの「警衛組」 は警備配置の企画と評価をし、また蒋介石が外出する場合、事前に「憲兵特別機動中隊」【注】 の出動を指示する部署である。

「侍衛区」内の勤務服装は、「侍従武官」がそれぞれ陸海空軍の軍服以外に、 全員中山服とされている。

【注】憲兵特別機動中隊とは、憲兵装甲車小隊と憲兵オートバイ小隊からなり、台湾南北の憲兵第202、201連隊それぞれ一中隊が設置され、 蒋介石が各地へ視察する際に、道路警備は各地の憲兵隊が担当し、この部隊は「中衛区」の警備の一環となされていた。1968年に「連合警衛安全指揮部」 が設立した後に廃止された。


警衛隊(官邸警備隊)

主に「内衛区」の警備を担当する「警衛隊」には、隊員を「衛士」といい、 「憲兵乙式軍便服」を着用し勤務すると規定されている(ただし、 官邸本館内の「第一~第四直衛」は中山服着用)。

「警衛隊」にはいくつかの「区隊」から構成され、官邸警備の歩哨勤務がなされていた。なかに「第3区隊」は官邸西側、大門を含めての担当で、また蒋介石が亡くなり、官邸が公開されるまで撤去されなかった「区隊」としてよく知らされている。なお、蒋介石の遺体を安置する「慈湖御陵」には士林官邸の一「区隊」が配備されていた。

警衛隊の区隊のなかに「内衛区隊」は「機動区隊」とされ、蒋介石が官邸や総統府以外の場所にいる場合の第2層警備を担当する「区隊」である(第1層は「内衛組」)。 例えば毎年の4月~10月の間、蒋介石が陽明山に所在する夏の別荘「草山行館」で過ごすため、 「内衛区隊」は「内衛憲兵中隊」と共に27個の歩哨を草山行館の周辺に設置していた。また、本館前庭のロータリーには国旗掲揚台が設けられ、 毎朝9人のチームが国旗掲揚式を行なうも「内衛区隊」の勤務である。

内花園で撮影された官邸の主人である蒋介石夫妻。
後ろの建物は官邸本館の大接客室で、ドアーを開いている人は「第三直衛」である。

官邸本館一階の部屋平面図である。赤いアルファベットや文字をクリックすると、写真付きの説明が別ウインドウで示す。
A~D は直衛の場所である。

大応接室 食事部屋 ダイニングルーム 応接室 応接前室 D. 第4直衛 C. 第3直衛 B. 第2直衛 A. 第1直衛



「警衛隊」が官邸本館内部の警備配置には4つの「直衛(当直衛士)があり、それぞれ下の通りである。 この4つの「直衛」警衛隊の階級上位者が担当することであり、勤務服装は全員中山服とされ、特に第2と第4直衛は准「侍従官」とされ、 必ず同じ時間帯の警備当番者のうちの階級最上位者が就くことである。

(A)第1直衛:官邸本館正門の門番である。

(B)第2直衛:応接室から大応接室へ行く廊下に位置し、官邸本館後半がその担当エリアである。この第2直衛は准「侍従官」とされている。

(C)第3直衛:「内花園」に面した「大接客室」の出入り口に位置し、官邸本館の裏口の門番である。

(D)第4直衛:官邸本館前半に位置し、玄関の左側には武官室と秘書室が設置され、 警備よりも武官や秘書の命令伝達が主な勤務内容とされ、准「侍従官」とみなされる配置である。

1966年に官邸訪問中の韓国大統領朴正煕
撮影場所としては本館内の渡り廊下で、「第二直衛」の警備する位置はこの辺である。


本館周辺の警備配置図。
(A)~(D)は「第1~第4直衛」、(E)は第1歩哨。勤務服装は中山服である。 (I)は第14歩哨、服装は憲兵乙式軍便服。


蒋介石みずから官邸警衛隊の点呼を行なう様子である。(1966年)
部隊全員が「憲兵甲式軍便服」を着用し、場所としては「干城四村」(一番上の案内地図を参照,36)の奥にある警衛隊の集合場と推測されている。

本館以外に、「警衛隊」が設置する歩哨には、官邸敷地内の16箇所にのぼり、また本館後ろの山間部にも「区隊」が各トーチカに駐在している。 下にいくつかの歩哨例を挙げて説明する。

(E)第1歩哨:本館前庭の入り口と招待所を警備する歩哨である。

(F)第4歩哨:官邸入り口から約70メートルのところに歩哨所が見られ、 「第3区隊」の私服隊員一人と武装軍服隊員一人、さらに「警務組」の大門管制官(中佐、大佐)が配置されている。第4歩哨とはこの武装軍服のことである。

(G)第5歩哨:園芸試験所の椰子並木の大門から一番奥には官邸の裏門となり、 第5歩哨はここに配置されている。官邸時代にはゲートが設置されていた。
1960年にアメリカのアイゼンハワー大統領が官邸訪問した際、彼を乗せた専用車にはここから官邸へ入るとのことである。

(H)第9歩哨:バスケットボール場前に位置し、「侍衛区」へ入る前の最終歩哨である。 ここには信号機が設置されており、本館から青信号にする指示がなければ、来客は「侍衛区」へ進むことができない。 第9歩哨は信号に合わして交通整理の勤務もされている。

(I)第14歩哨:本館前庭の入り口の反対側に、「第1歩哨」 と一緒に本館前庭の左右両端に警備配置している。この歩哨の後ろには「侍衛長室」、「侍従組」、「内務科」、さらに奥には、 「官邸警衛室」の行政、通信、医務、会議室、情報センターなどの行政部門が散在している。


官邸の後ろ山には、「衡山指揮所」への秘密通路が存在しており、官邸全体を鳥瞰することもできるため、不審者の侵入を防止する目的で、 「警衛隊」に一区隊が山の各トーチカ(第71, 72, 75, 77, 81トーチカ)に駐在し、 中にもっとも官邸に近いのは (J)第77トーチカである。 ちなみに「衡山指揮所」とは「士林要塞」の一部で、今も軍の秘密基地とされており、米太平洋軍司令部の間に24時間のホットラインが設置され、 核攻撃に耐えられる地下要塞で、中国軍の攻撃時には総統をはじめとする政府・軍首脳が立てこもる作戦本部である。

官邸敷地内には一憲兵中隊が駐在され、官邸防衛部隊として配置されていた。1968年以前に内衛憲兵中隊は官邸警衛室所属の独立中隊であったが、 1968年に「福山警備指揮部」の設立と共に憲兵第216大隊のひと中隊に改編された。 1970年に「憲兵第201特別警衛指揮部」の発足により、 所属の憲兵大隊が当番でひと中隊をここに駐在していた。


官邸敷地内の歩哨配置例
赤い丸アルファベットをクリックすると、写真付きの説明が別ウインドウで示す。
J. 第77トーチカ I. 第14歩哨 H. 第9歩哨 G. 第5歩哨 F. 第4歩哨 E. 第1歩哨

中衛区(官邸特別警戒区)

官邸周辺1~2キロのエリアは「中衛区」とされ、「連合警衛安全指揮部」の設立後、「福山警備区指揮部(のち憲兵第二O一指揮部となった)」 が4つの憲兵大隊を統合し警備していた。士林官邸の両側1キロ離れたところには、「福山警備区指揮部」 の所在地「梅荘」と官邸護衛の憲兵大隊駐屯地「松園」 が存在しており、「松園」 とは憲兵戦車隊、憲兵第101連隊(1968年からは憲兵第216大隊に 改編)、憲兵軍犬隊、官邸中央警官隊などの駐屯地であった。一方、 官邸大門を面した道路(福林路)には、西の中山北路と東の中正路と交差するところに それぞれ (K)歩哨所が官邸大門の前哨として設置され、 不審車両の早期遮断を図っている。このふたつの歩哨所は憲兵第二O一指揮部所属の 憲兵大隊が警備担当していた。

外衛区

4層目の「外衛区」とは、「中衛区」へ入る連絡道路のことであり、「連合警衛安全指揮部」が成立する前には、「官邸警衛室」が必要な警備支援を直接に 台北市憲兵隊(憲兵第二O二指揮部)と警察局、または陸軍部隊に指示することである。


草山行館

草山行館 「草山行館」とは、大正9年(1920年)に台湾糖業株式会社に、当時の皇太子であった昭和天皇が台湾を訪問する際の接待所として建設され、敷地総面積549坪を有し、木材と石材を組み合わせた典型的の日本建築である。しかし大正12年(1923年)に裕仁皇太子が台湾を行啓した際には、 台湾総督府が建設した「草山貴賓館」を利用した。 その後「草山行館」は上流社会の温泉山荘として存在していた。

1949年12月に蒋介石が台湾まで亡命し、最初には「草山貴賓館」を官邸として利用したが、中華民国の正統を示すために、 孫文の息子である孫科を台湾まで招いて、 「草山貴賓館」を彼にゆずって、そして自分が「草山行館」へ移転した。翌年の1950年3月に蒋介石が総統に就任し、5月に士林官邸および士林要塞の建設が終わり、 引越しした後「草山行館」は蒋介石の避暑地として使われ、別名「草山官邸」ともいわれている。

1969年以降、「草山行館」が文化施設として修復され、2003年から一般公開されて市民の憩いの場とされていたが、2008年4月7日に火災で焼失され、出火原因は不明のままであるが、現在は復旧作業が行なわれている。

ちなみに「行館」というのは台湾各地にあって、蒋介石専用の宿泊施設として使用してきた建物である。現在知らされる「行館」は約37ヶ所にのぼっている。


復興賓館・角板山行館

角板山は台湾 中央山脈 の北部横断道路の入り口に当たり、海抜640mの山群に位置する高台として、日本統治時代から「台湾十二勝」の一つに挙げられる景勝地である。 ここは1914年の当時に皇太子であった昭和天皇が台湾を巡幸する際の休憩所として、 佐久間左馬太 総督がを建設したもので、「角板山貴賓館」とは西洋木造の洋館と付属の純和風の和館から合併された建物である。その後も 「高砂族」 を見学する宿泊施設として、秩父、朝香、久邇、東伏宮妃、久邇朝融王など多くの皇族が訪れた。

戦後の1949年6月に蒋介石が初めてここを訪れ、この「角板山貴賓館」を自分の別荘として「復興賓館」に改名し、しょっちゅうここに泊まっていた。洋館の前には蒋介石宋美齢夫婦の植えた木を「夫妻樹」と名づけられた名所がある。

1960年に安全上の考量で町から離れた場所に新たな「角板山行館」が建てられた。この角板山行館には、長さ100mの緊急避難および作戦司令部に利用できる秘密トンネールが建設されている。

その後「復興賓館」は救国団の宿泊施設とし、庭園全体を「角板山公園」として利用されている。1992年に洋館は電気火災により焼失し、本来の場所で 救国団 青年活動センターに建て替えられた。

一方、「角板山行館」は現在蒋介石親子の文物展示館とし、秘密トンネールを含めて「角板山行館園区」として一般公開されている。
台湾北部に位置する角板山は昔から景勝地として有名であり、 蒋介石もここを彼の故郷中国浙江省の渓口鎮の風景によく似ていることから好んで滞在した場所となる。 当時に皇太子であった昭和天皇が台湾を巡幸する際の休憩所として建造された「角板山貴賓館」、写真は新造時の様子である。 戦後は蒋介石の別荘として、「復興賓館」に改名された。
そして現在の模様、救国団青年活動センターとして使用され、和館はまだ健在である。 1960年に安全上の考量で少し町から離れた場所に建てられた「角板山行館」。今は蒋介石親子の文物展示館として一般公開されている。
「角板山行館」のすぐ側には、長さ100mの緊急避難および作戦司令部に利用できる秘密トンネールが建設されている。写真はその入り口で、正面には弾避けのコンクリートが作られている。 トンネールのなかには多数の防弾ドアーが設置され、そのドアーに射撃穴が設けられている。

 
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