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総統の側近警護官たち―精忠部隊


国防部警衛隊のマーク 「精誠団結一条心、忠貞愛国為領袖(精誠団結の心をひとつに、領袖のために忠貞愛国を)」 は蒋経国(しょうけいこく、蒋介石の長男)が国防部警衛隊への訓示であり、そして「精誠」と「忠貞」のそれぞれひと文字をとり、「精忠」がこの部隊の名である。


側近警護隊の変遷

1924年に蒋介石が黄埔軍官学校の校長に就任し、 「校長室(部)」の従属として側近警護の「警衛班(側近警護班)」と「衛士排(警護小隊)」を設置した。このふたつの組織はのちに「警衛連(警備中隊)」に合併される。1929年に国民党軍北伐 の終わり頃に、陸海空軍総司令部が正式に「侍衛班」を設立し、王世和上校(大佐)を初代の班長である侍衛長に任命した。1933年2月、国民政府 軍事委員会 (委員長は蒋介石)が「侍従室(部)」を増設し、その下に「侍衛班」が置かれるようになった。

1935年1月に国民党の中国共産党掃討作戦は一時終結し、掃討作戦大本営である「南昌行営」は撤去された。そして「軍事委員会(委員長蒋介石)」は新たに「武昌行営」を設置し、その下に「侍従室」、「警衛股(課)」、「警衛大隊」という別々の組織とした。また「警衛股」は依然として侍衛長の直接指揮下に置くことにし、「侍衛官(中尉~中佐)」と「衛士(下士官・兵士)」から構成され、側近警護や使用人勤務などが任された。

1942年以降、「侍従室」は「軍事委員会」の部署から切り離され、独立した「侍衛長室(部)」に改編され、蒋介石本人の直接指揮下に置かれた(初代の侍衛長は兪済時)。のちに蒋介石の視察活動が頻繁になり、1944年に国民政府(中国重慶)の「軍事委員会警衛団(軍事委員会警備連隊)」が設置され、まもなく兵力は旅団まで拡大された。戦後には「国民政府警衛総隊」に改名されが、1948年5月に蒋介石の大統領就任と共に、「総統府警衛大隊」と改編された。

1949年1月に蒋介石が一時的に引退し故郷へ戻ったので、「総統府警衛大隊」の名前も「国防部特務大隊」に変更され、その5/6の兵力は蒋介石の居住地(中国浙江省奉化県)へ移転配置された。1950年に蒋介石が台湾へ亡命し、台湾で政権を再建し大統領に就任した後、警護隊がまた再び「総統府警衛大隊」の名義にて復帰し、最終的には1955年に「総統府警衛隊」という部隊名として定着されるようになった。1975年に蒋介石が亡くなり、側近警護の体制が検討されて、新たに「連合警衛安全指揮部」が設置された。今度は「総統府警衛隊」は「国防部警衛隊」と変更されたが、2005年4月からは「憲兵司令部警衛大隊」と改編された。

年代 当時の側近警護隊 記事
1924 「警衛班」と「衛士排(警備小隊)」 蒋介石が黄埔軍官学校の特命校長に就任
1929 「侍衛班」 北伐終了
1935 「警衛股(課)」、「警衛大隊」 共産党掃討作戦終了、軍事委員長に就任
1944 「軍事委員会警衛旅」(旅団) -
1945 「国民政府警衛総隊」 対日戦争終了
1948 「総統府警衛大隊」 蒋介石が中国南京で大統領就任
1949 「国防部特務大隊」 蒋介石が一時引退
1950 「総統府警衛大隊」 台湾台北で大統領就任
1955 「総統府警衛隊」 -
1975 「国防部警衛隊」 蒋介石死去
2005 「憲兵司令部警衛大隊」 -


士林警衛室

1949年、国民政府は台湾に亡命し、蒋介石が台北で再び大統領に就任した。国民党政権が新しい総統府組織法を作り、その第一条に「総統府が警衛大隊を設置すること」と定められている。この「警衛大隊」は蒋介石が中国で一時引退した時期の「国防部特務大隊」から縮小編成して改編したもので、計6大隊を有している。余った人員は「国防部警衛団(国防部警備連隊)」に編入され、他の官舎の警備任務にまわされた。「警衛大隊」の6つの大隊のうちの4つは花蓮にて待機・訓練している。1953年春、幼年兵総隊【注】から90名の新しい「衛士」が選ばれ、花蓮の警衛大隊付属特種勤務班に送られ訓練を受けた。

【注】幼年兵総隊:1950年に陸軍総司令官孫立人将軍が金門島に設立した部隊で、計3大隊を有していたが、1953年に孫立人が蒋介石に軟禁された後、解散となった

残りの2大隊の中に、ひと大隊は士林官邸(衛士大隊)に、そして残りの大隊(第一大隊)は「国防部警衛団」と共に総統府に勤務していた。 1954年に白団 とアメリカ軍事顧問団の意見を参考し、第1大隊と「国防部警衛団」第1大隊が合併され憲兵独立第1大隊となり、2年後に憲兵第211大隊の部隊番号が付与された。 翌年の1955年11月に士林官邸の「衛士大隊」を保留した以外に、残りの「警衛大隊」は憲兵独立第11大隊(のちに憲兵第213大隊に)に改編され、機動警護勤務に就くこととされている。

60年代に入ると、蒋介石の故郷(中国浙江省)出身の憲兵隊軍人を中心とした警護人員もついに定年を迎え、台湾における新規人員の導入が検討されたが、 蒋介石の長男である蒋経国が1966年なかばに当時の侍衛長であ る郝柏村に、 台湾本島ではなく金門島出身者を警護人員として採用するように指示した。 そして総統府副侍衛長(官邸警衛室主任も兼ねる)張兆聡みずから金門島で面接を行い、「陸軍第三士官学校(下士官養成学校)」の一期生(1966年9月入学)450人中の108名を選抜し、憲兵学校へ転校させた。この108人が憲兵学校の第36期下士官コースで2ヶ月半の教育訓練を受けた後、憲兵下士(憲兵三等軍曹) として士林官邸の「侍衛区(側近警護)」と「内衛区(官邸警備)」に派遣された。ここに「百八の金門男」と称され、台湾における初代の金門籍総統親衛隊が誕生したのである。

1960年に修正した総統府組織法によると、総統の警護体制には、「警衛室」をさらに「外衛室」と「内衛室」に分けられている。第一副侍衛長(中将)は「警衛室」主任を兼任し、「特別警衛勤務」の責任者となっている。第二副侍衛長は「警衛室」の行政主任であり、実際業務の運営者である。


警衛体制

士林官邸の警備体制には、玉ネギみたいに内側から「侍衛区」、「内衛区」、「中衛区」、「外衛区」の4層からなっている。 「侍衛区」とは官邸本館、また蒋介石本人から50メートル以内とされている(いわばSP)。 「内衛区」とは蒋介石から50~100メートルの区間とのことで、基本的には官邸敷地内の警備とされている。「中衛区」とは官邸敷地を中心に半径1~2キロの特別警備区、「外衛区」とは特別警備区となる主な連絡道路の警備である。

「官邸警衛室(官邸警備課)」には、勤務内容によって、警備業務の「警務官」、側近警護の「侍衛官」「侍衛」、蒋介石の身の回りの世話をする「侍従官」に分類され、基本的に勤務服装は中山服とされている。これに対し、官邸および「内衛区」、官邸の後ろの山の警備を担当する「警衛隊(官邸警備隊)」の隊員は「衛士」と言い、その勤務服装には、第1~第4直衛が中山服以外に、「憲兵乙式軍常服」の武器携行と規定されている。


警衛隊(官邸警備隊)

約200名の兵力を有する「警衛隊」の兵舎は官邸の東側、後ろの山の第77トーチカあたりに位置し、官邸を鳥瞰することが出来る。官邸本館を中心に、南の「警務組(係)」と西の「内衛区隊(小隊)」兵舎と三方向から警備配置されている。 「警衛隊」はいくつかの「区隊」(一区隊には5分隊を有する)からなり、「官邸警衛室」の指示のもとで官邸敷地の警備の勤務とされている。

「警衛隊」の場合は、機密上の考慮で人事異動には外部の軍職に回されないように、兵舎内で補習教育を経て優秀な人員は憲兵学校士官コースへ送り出し、そして卒業後にまた警衛隊に戻し、幹部として昇進採用するのが唯一の出世道となっている。このため、金門島出身の隊員が常に大多数を占めている。金門島出身の人員のほとんどは第2層の「内衛区」に配置されている。


内衛区隊(機動警護隊)

「警衛隊」のいくつかの「区隊」の中で、「内衛区隊」は機動区隊とされ、常に蒋介石の視察活動と共に移動してする。特に毎年の4月~10月の間、蒋介石は陽明山に所在する夏の別荘「草山行館」で過ごすため、「内衛区隊」は「憲兵特別機動中隊」と共に27個の歩哨をここで設置している。

蒋介石が移動する際、通る道のすべての車を一旦停止させ、ヘッドライトを消させ、車列の先発隊は交通規制を行ない、また総統車列(五両編成)の最後には必ず火力支援チームの車両が付いている。この場合の個人装備には、中山服の制服組(侍衛組)は拳銃2挺、私服組の内衛組(内衛区隊)は拳銃2挺とアサルトライフル1挺を配備している。


二代目の金門籍警備隊員

1968年5月、長男蒋経国みずから警衛隊長楊雄偉と一緒に再び金門島で80名の「衛士」を選んで、憲兵学校へ入学させたが、なかの10人が卒業できず、計70名の人員が翌年1月に士林官邸に配置されている。

この頃に、警衛大隊における初代の士官幹部がついに定年を迎え、20名の枠を補うことになった。このために、最初の百八名の金門島出身の隊員の中から19名が憲兵学校士官コースに合格となり(再試を含む)、入学となった。この19人が卒業後の1970年末に憲兵少尉として警衛隊に戻って士官幹部として採用されている。

1969年11月、3回目の金門島出身の「衛士」の選抜が行なわれた。最初は96名であったが、憲兵学校を卒業できたのは70名で、うち直接「警衛隊」に入ったのは39名、残りは「中衛区」を担当する憲兵第225~227大隊に配属され、翌年に官邸に転属された。


      連合警衛安全指揮部の設置

1970年8月に侍衛長孔令晟(こうれいせい)がアメリカ合衆国シークレットサービス(U.S. Secret Service)を参考とし、24時間体制の「連合警衛安全指揮部(陸軍、憲兵、警察、情報局、捜査局を統合した大統領護衛連合司令部、略して連指部)」を設立した。さらに官邸警備区に4つの「特種警衛大隊(憲兵第225~228大隊)」と、この4つの憲兵大隊を統合する「二〇一憲兵特別警衛指揮部を増設し、本来「警衛隊」の責任であった官邸周辺および草山行館の武装軍服歩哨をこれらの憲兵大隊で入れ替えた。また、官邸外側(中衛区)に新たに警官隊を設置するもこの時期である。

侍衛長孔令晟将軍のもうひとつの改革は、後日「内衛区」の新入幹部を、「憲兵学校専修生」(1年の憲兵士官コース)以外に、「陸軍軍官学校正期生(陸軍士官学校の4年コース)」の卒業生も採用するように、蒋経国へ提言した。これにより、警衛人員に質の向上や、憲兵学校のOBに独占されるという現状の改善をすることができるようにした。陸軍軍官学校正期生の採用で、卒業後ただちに「連合警衛安全指揮部」に配属されることや、各陸軍師団から一名の尉官が推薦されるという方法であった。これらの人員は、アメリカのFBIに派遣され、SP拳銃実戦の特訓を受けることになる。

1970年に蒋経国がアメリカ訪問中に暗殺未遂事件に遭遇したため、蒋経国の側近警護隊として、「警衛隊」の2区隊60人編成の「七海侍衛分遣組」、が設置された。


士林警衛室の終焉

1971年以降、蒋介石の健康悪化が表面化し、台北栄民総医院へ通い始めたため、「警衛隊」の1区隊が栄民総医院に駐在するようになった。

1974年1月、第7回の「衛士」選抜が実施された。「陸軍士官学校(下士官養成学校)」から35名(第8期生)を陸軍第27師団で代行訓練を行ない、3ヶ月後には歩兵下士(歩兵三等軍曹)として「警衛隊」に配属した。これが最初の非憲兵出身の「衛士」である。

1975年3月、再び金門島の「陸軍第二士官学校」から32名の「衛士」を選抜し、陸軍第49師団で3ヶ月の代行訓練を行い、1976年2月に官邸に配置した。

1975年に蒋介石が亡くなった後、彼の遺体を安置する「慈湖御陵」に1「警衛区隊」が増設された。なお、士林官邸の「第三区隊」はそのまま保留されている。


七海警衛隊

国家安全局の参入

1975年7月31日、蒋経国は側近警備体制を国家安全の一環として取り入れた。そして士林官邸の南側に「連合警衛安全指揮部(joint Guardforce and Security Command, 略して連指部)」が設置され、組織的に「国家安全局」に所属されるので、国家安全局長がその司令官も兼任しているが、実際の業務は副司令官が行なうこととされている。

1975年に元「総統府警衛大隊」が「国防部警衛隊」に改編された時に、蒋経国の官邸警護にあたる「七海警衛室」の採用試験も同時に行われた。 これを機に警衛隊隊員が猛勉強し、一部が「憲兵学校専修班(一年の憲兵士官コース)」に合格し、士官幹部の資格を有するようになった。 「警衛隊」の幹部として任用され、さらに「警務組」の「警務官」、「警衛組」の「警衛官」に採用されて十年以上の経歴を得ると、「侍衛官」へ転任することができ、最高は上校(大佐)まで昇進することも可能とされている。これをきっかけに「連合警衛安全指揮部」における警護系の憲兵出身者が大多数を占めるようになったのである。

1975年まで「総統府警衛大隊」の金門島出身の隊員選抜はすでに12回行なわれている。その後も「国防部警衛大隊」から、同じように金門島より隊員を募集したが、今度は直接募集し、一回60人で、採用後に下士官養成学校による一年間の代行訓練をさせて「警衛大隊」に配属するという方法で行なわれている。さらに「警衛大隊」による3ヶ月の実務訓練を受けた後に憲兵下士(憲兵三等軍曹)として就任するように変更となった。


国防部警衛大隊

「国防部警衛大隊」は4つの区隊、計25個の分隊から構成される。ひとつの区隊には4つの分隊を有し、400人あまりから編成され、その三分の二は金門島出身者である。4つの区隊の中に、第1区隊は「内衛区隊」とされ、常に「内衛組(班)」、「警(備)安(全)機動組(班)」と一緒に行動する。蒋経国が官邸にいる時は待機し、外出する時には蒋経国の50~100メートルのゾーンで警備している。第2区隊は官邸前大通りの道路警備と、第4区隊は官邸脇門警備となっている。官邸正門には「警安機動組」の当直士官が置かれ、これを境目に内側が「警安組」、外側は「内衛区」で、それぞれの責任区域とされている。なお、この当直士官は「陸軍軍官学校正期生(陸軍士官学校の4年コース)」または「政治作戦学校」出身の士官幹部が担当することとなっている。

1975年からの後継大統領は厳家淦(げんかかん、蒋介石時代の副大統領であった)であり、重慶南路通りの官邸に「重慶警衛室」が設けられていた。1978年5月20日に蒋経国が統治体制を整えて、正式に大統領に就任した。そこから士林官邸の第3区隊が「七海警衛室」に編入され、2区隊から5つ区隊(内衛区隊を含む)まで拡大された。

1978年に警衛隊長に就任した丁振東憲兵上校(大佐)は毎月射撃テストを行い、成績優秀な隊員を「内衛区隊」に配置し、1982年から彼の提案により、毎年「陸軍軍官学校」と「政治作戦学校」(ともに4年制コース)からそれぞれ2名の卒業生を「警衛隊」の幹部として配属するようにした。


憲兵司令部警衛大隊

1988年に蒋経国が死去し、副大統領であった李登輝氏が後継大統領として就任したが、「警衛隊」全員が蒋経国の殯所に配置されたため、李登輝は官邸に定員125名の「大安警衛室」の警護空白を警官隊から補充した。これを機に警察関係も側近警護システムに組み込まれるようになった。

1994年に「連合警衛安全指揮部」が「国家安全局特種勤務指揮中心(国家安全局特種勤務センター、略して国安局特勤中心または特勤中心)」に改編され、国の安全の一つと見なされるようになった。「国防部警衛大隊」の人員募集は憲兵司令部が代行し、国家安全局は事後の「再審」を行う。募集された人員は憲兵学校で教育訓練を受け、憲兵として「警衛大隊」に配属される。こうして、2005年から「国防部警衛大隊」は「憲兵司令部警衛大隊」に改名されている。


側近警護人員の進路とその影響力

40数年間で金門島の下士官養成学校より側近警護憲兵隊である「内衛憲兵」になった人数は延べ三千人弱とされている。契約期間を延長し「警衛隊」に残った隊員のほとんどは憲兵学校士官課程(一年の専修班コース)へ送られ、憲兵士官の資格を有するようになった。結局、官邸の側近警護システムの中で、憲兵出身でない者は、「特種警衛士」に選ばれ他の陸軍兵科学校の特訓を受けた者と官邸正門の当直士官のみに限られている。

1980年代に入ると、側近警護憲兵隊将校は大量に「連合警衛安全指揮部」の重要ポストを占めている。その結果、今もなお、「総統府侍衛室」、国家安全局特種勤務指揮センターや、各警察組織の連絡官など、ほとんどは金門島出身の側近警護憲兵隊から構成されている。やがて「金門派憲兵=総統の親衛隊」というイメージが世の中に定着してきたのである。また、大統領が各地を視察する時、各地の警察署が「国家安全局特種勤務センター」の「安警組」に指示を受け、評価されるため、側近警護憲兵隊は依然として、治安組織の中にある程度の影響力をもっているのである。

しかし側近警護憲兵隊には上位のポストが限られ、なおかつ人事異動で外部の軍職へ回されないため、ほとんどの士官幹部は中校(中佐)、上校(大佐)で除隊となり、将軍まで昇進する者はほんのわずかである。中層幹部(佐官)の除隊後の進路は、主に各国公立施設の警備関係である。例えば中正記念堂の「警衛組」には、「七海警衛室」のOBの再就職先であった。下級幹部(尉官)や一般隊員には、「警察官転任特別採用試験」を通ってから、法廷の当直警備、犯人の押送及び法廷の秩序を維持するための「法警(派出警察官)」に再就職するという事例が挙げられている。

1994年に「国家安全局特種勤務センター」の設立当時には定員264名および警衛隊300名、計564名の枠が設けられ、李登輝の「大安」 、李元簇(りげんぞく、 当時の副大統領)の「崇実」、故蒋介石の「士林」、故蒋経国の「七海」など4つの官邸警衛室に「警衛区隊」が配置されていた。1996年に台湾史上初めての大統領選挙が行われ、そこから四年に一度となったこの選挙戦には、与野党の大統領・副大統領の立候補者およびその家族の側近警護の企画対応や人員の提供は「国家安全局特種勤務センター」の責任とされている。当初蒋介石一族のために作った総統親衛隊の体制では現状に追いつかない状態となり、やむを得ずに警察関係者、主に「保安警察第6総隊第1警官隊(保6総隊警官隊)」の大量導入がなされている。しかしこれらの警察官には一時派遣の形態が多く、陳水扁大統領時代にも側近警護体制の主導権を警察関係に移行しようと試みたが、結局、「国家安全局特種勤務センター」における金門島出身の総統憲兵隊が依然として2/3の割合を占めている。現行規定によると、現職の大統領副大統領の「官邸警衛室」には定員が125人で、引退した大統領には20人の警備編制が定められている。

半世紀以来の台湾の元首警護体制には、名称や組織が変動されても、憲兵血統の精忠部隊(現在は憲兵司令部警衛大隊)がその主役であることを説明している。 2006年度の国防白書にも依然として「憲兵隊の主な任務のひとつは『特種警衛』である」と書かれている。

 
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