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台湾警備総司令部 職業訓導処(強制労働収容所)

台湾憲兵OB会


一.労働訓導営の時代

1906年(明治39年)3月13日に台湾総督府が「浮浪者取締規則」を公布し、翌年の10月に島内各庁から18人の遊民が浮浪者と認定され、 台東の「加路蘭浮浪者収容所」に送られ、生活技能(木工、工芸、農業など)の習得をさせる。昭和3年にこの浮浪者収容所が「岩湾開導所」に改名された。
1946年5月5日に当時の警備総司令部参謀長柯遠芬みずから台北市大直の旧青年訓練所(今は海軍総司令部)を利用し設立したものであり、6月1日から第一期の収容者が入所した。初代の収容相手とは、素行不良者、アヘン中毒者、失業者、遊民など、法律に罰則はないが治安に害の恐れがあると思われる者の491名2中隊である。訓練時間としては長期と短期(6ヶ月)に分けられ、内容とは生活指導と職業訓練が含まれ、同年11月20日に短期班が出所した。

1947年の二二八事件後、 486名の軽罪逮捕者がこの職業訓導処に移送されたが、収容しきれなくで、台東県岩湾にある戦前の開導所を利用し「東部労働訓導営」が増設された。

1949年に国民政府が台湾まで亡命し、9月1日から治安維持と労働感化業務を新設した「保安司令部」の管理下に収まった。


二.職業訓導総隊の時代

坪林第二大隊
后里第三大隊
岩湾第二総隊
蘭嶼第二総隊第三大隊
小琉球第三総隊
小琉球第三総隊の軍事教育
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坪林第一総隊
岩湾第二総隊
泰源第三総隊
屏東農場第三大隊
緑島指揮部第十一大隊
1955年から「刑法第145条」、「違警罰法」に犯し、さらに「戒厳時期取締流氓弁法(戒厳令時期素行不良者取締り法)」の条件に満たした者は、 所在の県市警察局(県警本部)に審査され、地区警備司令部、憲兵隊、警察局の合同会議を通して、「素行不良者名簿」に載せられさせた。これらの者に対し、 定期的に警察署へ出頭させ、口頭勧告を受けさせ、三回違反した場合には、3年ぐらいの保安処分、または軍事裁判に移送られ、5年ぐらいの矯正訓練が課かれた。

職業訓導隊の矯正内容は三段階に分けられる。第一段階は新入生教育といい、3~6ヶ月の軍事訓練である。第二段階は労働教育、内容としては土木建設であり、 期間には個人差がある。第三段階は実習教育、養殖や農産、工芸などの実技があげられる。

職業訓導隊の隊員は甲級、乙級、丙級、丁級隊員に分類され、それぞれ刑期四年以上、三年、二年、一年を意味している。甲~丙級の減刑再評価は1年ごと、丁級は半年ごととされている。

保安司令部が1952年5月以降から続々に職業訓導隊を拡張し、初代の労働訓導営を台北県板橋の旧日本軍自動車隊駐屯地に移り職業訓導第1総隊とし、 台東労働訓導営を岩湾職業訓導第2総隊とした。さらに台北県の坪林に第1総隊第2大隊、台東県の玉里に第2総隊第1大隊(以上2ヶ所は石材加工場)、 台東県の離島である緑島と蘭嶼に第2総隊第3大隊(以上2ヶ所は畜産農産)、 台中県后里に第3総隊を設立した。1953年に高雄県の離島である小琉球に第3総隊(本来の后里第3総隊を第1総隊第3大隊に改編)を増設した。 さらに中部横貫道路を建設するために、台中県山間部の東勢に第3総隊ひと大隊を増やした。

1956年5月に保安司令部が新しい台湾警備総司令部に合併され、これらの業務も警備総司令部保安処の管理下に置くこととした。同年10月に屏東県林辺に畜産と養殖を専門する第3総隊第3大隊が増設された。

1965年に、緑島へ入所する予定の政治犯や思想犯が新たに成立した泰源感化訓導刑務所(台東県東河郷)に移送され、 同じ緑島指揮部の管理下に置くにした。その後1970年の「泰源事件」【注1】の影響を受け、 1973年に泰源感化訓導刑務所が軍人刑務所に改編され、なかの受刑者全員を台南県の六甲に新しい建設した国防部刑務所に移送され、 本来の場所を第3総隊にし、さらに全国3つの総隊にそれぞれひとつの甲級中隊を増設した。

【注1】泰源事件:国民党政権は刑務所の暴動事件と認定したが、民間には台湾独立武装革命と考えた。事件後、参加者はもちろん、 軍事裁判にかけられた職務過失の刑務所警備中隊に台湾出身者20数人が死刑、残りは無期懲役とされる事件であった。 (Wikipediaにより)


1978年8月1日に、緑島に新たな第11荘敬大隊、第12自強大隊を設立し、その下にそれぞれ4つの中隊が含まれ、思想犯や長期犯の集中収容を専門とした感化訓導所である。 同年11月に、岩湾第2総隊が内政部の基準に満たした付属職業訓練センターを設立した。教育内容と教師陣は内政部に任せ、訓練期間を1年8ヶ月にした。

1979年に蘭嶼の第2総隊第4大隊が撤去され、受刑者を岩湾の第2総隊第9中隊に移送した。

1980年に「捕鼠専案(ネズミ捕り特別企画案)」が実施されたため、緑島に第12大隊が新たな甲級素行不良者中隊を増設した。

1982年に泰源第3総隊の受が収容しきれられず、花蓮県卓渓郷に林木実習農場をひと大隊に増設した。1983年に坪林と泰源ともに職業訓練センターが設立された。

1984年に「江南事件」の影響を受け、11月12日から警備総司令部が「一清専案(暴力団一掃特別企画案)」を実施し、警政署、調査局、憲兵隊の協力を得て、 一斉に3141名の逮捕者を入所させた。このため、台東県東成の陸軍駐屯地を借り、第3総隊第4大隊を新設した。「一清専案」で入所した収容者には、 減刑適応の対象外とされ、のちにトラブルの原因となった。

1985年からこれらの職業訓導隊が再編され、全部で4個の総隊(坪林、岩湾、泰源、東成)と緑島の2個の大隊(荘敬、自強)となった。同年度に今まで職業訓導幹部の人手不足による受刑者自治幹部の採用から生じた問題点を解決するために、幹部の外部公開募集が行なわれた。

11月27日に行政院(内閣)が「動員戡乱時期検粛流氓条例及其施行細則(反乱平定時期における素行不良者検挙条例および施行細則)」と「動員戡乱時期流氓感訓処分執行弁法(反乱平定時期における素行不良者感化訓導刑罰執行法)」を公布し、前者の第八条によると、各職業訓導隊には依然として警備総司令部の管理下に置くことと示している。また、矯正期間を3年にし、ただし悪質の場合は5年まで延長することもできると書かれている。しかし、「一清専案」の入所者はこの改正法の適応対象外とされるため、収容者の不満が爆発し、1987年11月と12月に2回の所内暴動を起こしたが、とも軍に鎮圧された。

感化訓導隊の警備隊について、台北県坪林第1総隊は警備総部憲兵大隊(
憲兵第230大隊)の分遣隊、離島緑島は陸軍空挺隊と緑島指揮部の憲兵中隊が担当するのを除いて、他の施設は花蓮台東の警備憲兵大隊が一施設一中隊に配置しているとされる。

1987年11月30日夜明け,憲兵部隊が隊長勞O生中校(中佐)の指揮下で岩湾行仁刑務所を突入し,一週間に続いた刑務所暴動を鎮圧した。

(写真は岩湾事件検証ビデオによるもの)
1987年12月1日午前、憲兵鎮圧部隊の突入が破れ、大勢の受刑者は大門から脱走する際に、緑島指揮部憲兵隊中隊長趙〇雄上尉(大尉) が発砲命令を下って、数十名の脱走者を命中し制圧した。

(写真は1987年12月18日に撮影したもので、当時憲兵第二〇五指揮部がひと憲兵中隊を増援していた。この刑務所はのちに撤去された。)
緑島指揮部第十二大隊

1988年4月から軍事戒厳令の解除および減刑条例に応じて、「軍法保安処分」によって入所した収容者は減刑条例により徐々に釈放され、残りは法務部(法務省)の管理下に置くことにした。泰源職業訓導隊は法務部に渡され、職業訓導第1総隊の板橋と后里大隊、第2総隊の玉里と林辺大隊が撤去された。そして警備総司令部の管理下に残るものは東成の第1総隊(第1~3大隊および付属坪林第2大隊)、岩湾の第2総隊(第4、6大隊および鵬村第5大隊)、緑島の第3総隊(第7~9大隊、なかに第8大隊は軍人受刑者)とされている。

同年10月から、収容者は労働者組合健康保険に参加させた。1989年、各職業訓導隊に心理相談室が設置された。

各職業訓導処(強制労働収容所)の所在地
ひと職業訓導大隊は3つの中隊から構成され、中隊の幹部編成は少校(少佐)中隊長と6名の職業軍人(監査官、行政官、心理作戦官、教誨士、訓練士、助手訓練士)、および5から8名の徴兵者からなる。1989年からさらに外部募集の心理分析官と4~6名の補導員が加えられた。

軍事戒厳令時期に大規模の暴力団や素行不良者逮捕特別企画案(専案)以下の通りである。1955年の「伏妖専案」、1962年の「安民専案」、1976年に賭博関係の暴力団を対象とした「除四害専案」が挙げられる。1978年の「除暴一号」と「除暴二号」、1980年に「捕鼠専案」、1984年に「一清専案」と1986年に「二清専案」、1990年に「迅雷専案」などが実施された。

なお、強制労働により完成された建設は、第2総隊の台東堤防、第3総隊の中部横貫道路(1951年)と、小琉球環状道路(1973年)などが挙げられる。


三.付属少年輔育励志班(少年補導教育中隊)

台湾警備総司令部が公布した「不良少年補導臨時措施」により、社会処(社会局)が1971年に小琉球と1981年に岩湾の「少年輔育励志班(少年補導教育中隊)」を設立し、 警備総司令部の代行管理下に置くことにした。全国各地の少年補導院における管理の難しい少年犯をここに入れさせ、軍事教育と軍事労働が課かれたが、 厳しい管理による死傷事故が頻繁に起きている。 有名な1975年の小琉球集団脱走事件【注2】や1981年の岩湾中隊少年隊員虐待致死事件の後、 1984年に警備総司令部が代行管理をやめ、法務部に管理権を返還した。

【注2】小琉球集団脱走事件:1975年に小琉球少年感化院の少年受刑者が祭り行事を利用し集団脱走したが、当時の総隊長が島の守備隊である海兵隊に発砲命令を下り、 多数の死傷者を生じた事件であった。 事件後に集団射殺現場は幽霊名所となり、地元住民による鎮魂祭が毎年行なわれていたという。なお、 今この場所には漁村休閑運動公園となっている。


四.警備総司令部職業訓導処

警備総司令官陳守山将軍が
岩湾第2総隊を視察している。
動員戡乱時期における治安維持と社会安全の最高責任者である台湾警備総司令部は「保安処(保安部)」の下に「職訓組(職業訓導課)」を設置し、 暴力団や素行不良者の感化訓導収容所を掌る。最初は非常設組織とされたが、1976年に正式の「職訓処(職業訓導部)」と国防部の認可をもらった。 原因としては、「一清」と「二清」の特別企画案であり、特に「二清専案」後に全国の職業訓導隊の収容者数は一万5千人に達し、管理幹部の不足が表面化され、 正式な組織でないと枠が設けられないためであった。結局この年の警察学校と士官学校の卒業生には数多くに職訓処に配属された。

1987年に泰源の隊員虐待致死案により、隊員管理法が検討された以外に、司法事件による入所した受刑者は台北と台南、花蓮刑務所に移送された。さらに警備総司令部が逮捕入所させるリストには、裁判所が10日以内に可否しなければならないこととされるようになった。

感化訓導は「仮釈放」もあったが、法務部の「保安処分累進処遇章程」に基づいた制度であるため、警備総司令部の「専案」で入所した者には対象外とされている。また、1988年以前に出所した者には、保護観察所業務をする「団管区(連隊区)」から10万元(当時の大卒初任給は2万元程度)の融資ができるとされている。

1988年4月から、減刑と戒厳令の解除に応じ、「一清専案」の入所者が大量に釈放され、暴力団検挙の業務も内政部と法務部に返還された。このため、職業訓導処の編成が減らされ、泰源第3総隊も受刑者1500名と施設全部を法務部にわたされた。残りの3つの総隊は1990年6月に東部地区警備司令部の管理下に置くことにした。

今も岩湾に残されている第4大隊跡
 

同年12月に行政院の法制検討会が警備総司令部による暴力団認定業務とその感化訓導業務を関与しないように決定した。 翌年の1991年6月に動員戡乱時期の終結により、警備総司令部の職業訓導処が撤去され、半世紀にわたって警備総司令部の保安業務に休止符を打った。



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