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憲兵軍装の変遷

(甲種勤務服を中心とした概要)

By:DDS

※戦前、1911~1946年※ ※戦後、1947年からの変遷※
1911~1924年(草創時期) 1947~1958年(国共戦争時期)
1925~1931年(北伐軍時期) 1952年以降(台湾初期)
1932~1937年(日中戦争初期) 1959~1969年(冷戦初期)
1937~1946年(日中全面戦争時期) 1970~1983年(冷戦後期)
1984年以降

※戦前、1911~1946年※

1911~1924年(草創時期)      近代中国憲兵の発足は、八国連軍(北清事件)をきっかけに、清政府が北京の治安維持するために入城した各国軍の軍制を参考にし、成立した「京師善後協巡営」という組織である。その後すぐに日本軍の軍政事務官である川島浪速を顧問として招き、日本語の「憲兵」二文字をそのまま採用し、中国最初の憲兵学校「憲兵学堂」を創立した。翌年の1905年に憲兵組織に等しい「陸軍警察所」が正式に成立され、その時の制服は日中戦争まで大きな変化なく使用されてきた。

図1:1911年清政府陸軍部が清国憲兵常服の様式を制定し、襟章に上半分は所属部隊、下半分は階級を示している。

図2:清王朝が倒れてまもなく1912年10月に、北の北洋軍閥を中心として成立した北京政権が制定した憲兵軍服の様式である。帽章はもちろん、襟章も五角形に変わり、階級章である肩章は縦に付けるようになった。 

図3:南に広州を中心とした国民革命軍の憲兵軍服の様式である。グレーの布地で1928年に南京国民政府が成立まであまり変化はないようだ。1928と1931年に発行した兵科襟章により、襟章と左胸に付ける階級名札や憲兵の巻き腕章が見られるようになった。

 


1925~1931年(北伐軍時期)       国民政府が南京に成立してから満州事変まで、憲兵軍服は清王朝の初代憲兵から、あまり大きな変化がみられない。

図1:国民革命軍が北伐時期の憲兵軍服。

図2:1927年蒋介石が北伐途中に山東省を視察する時、側近警備する黄埔憲兵大隊の隊員。腕章や名札、軍服と同じ色のグレーの巻き脚絆がみられる。

図3,4:図4は1930年4月に創立された国民革命軍第6軍団の武漢行轅憲兵連隊の軍服である。のちに憲兵第三連隊と改称したが、もとは湖北省の地方軍であるため、国民革命軍との軍服様式が明らかに異なっている。真ん中の班長の左手は軍刀を握って、右手に持っているのは清王朝から受けついた伝統の「憲兵勤務実行中」の手形である。両側の兵士の背中には青竜刀を背負っている。図3はその復元蝋人形であるが、軍帽の帯と襟章が間違って赤になり、この時期に憲兵の正しい兵科色は白である。

 

左上:清王朝が倒れ、北の北京政権と南の広州国民党政権それぞれ独自の軍服が制定され、のちに広州軍政府大本営が1923年に白色を憲兵の兵科色と規定した。その軍帽の青天白日帽章と憲兵の襟章が示され、白い襟章の上に実は所属とID番号が描かれているようだ。

右上:国民革命軍が南京を支配し、1928年9月に南京国民政府の《陸軍軍常服及び軍礼服条例》の中に憲兵の兵科色を新たなピンク色と規定した。セルロイドの地(真鍮の台座付)に「三角星」が付いて、下士官には下地に紺色の横線が一本、士官の場合は金色の枠と横筋がある。

左下および右下:1931年に《陸空軍士官佐及び兵士階級表》、1934年7月24日に陸空海軍の《軍幹部階級表》及び1935年1月10日に《兵士階級表》それぞれが制定され、よって俗に「符号」と呼ばれる名札が左胸に付けられるよう になった。この「三ツ星」階級章の名札の枠の色は階級(将官は赤色、佐官は黄色、尉官は紺色、下士官、兵士は黒色)の識別色である。
    左下の図をクリックすると拡大像がみられ、兵科は赤い漢字で“憲兵”と描かれ、尉官を意味する紺色の外枠と三つの三角星がこの時期の憲兵大尉の名札となっている。
     右下の図の上方の名札は憲兵学校下士官養成班の学生用で、黒色の外枠を示し、1935年から終戦までこのタイプの名札が統一して使われた。しかし実際の製作は各自の部隊に任せるため、多少相違が認められていたようだ。



1932~1937年(日中戦争初期)     国民政府が南京に成立してから満州事変まで、憲兵軍服の様式は清王朝の初代憲兵から、あまり大きな変化がみられないが、1932年に何応欽(かおうきん)将軍が軍需署に在庫したグレーブルーのウーステッド布地を中山服および軍帽に製作し、憲兵軍服として支給するように指示したが、のちにドイツの軍事顧問の提案を受け、黄褐色の布地に変更した。

図1:1932年に第一次上海事変中の戦闘に加わる憲兵。この軍帽はまた旧式である。

図2:南京憲兵訓練所に点呼を受ける憲兵である。旧式の軍帽が簡易生産できるようなドイツ軍型略帽に変更された。

図3:この時期の憲兵軍服の復元蝋人形である。防暑帽(いわゆる探検帽)が憲兵勤務用ヘルメットとして採用され、ドイツから購入したモーゼルM712拳銃とその革製マガジンポーチが憲兵の標準装備となったことなどがこの時期の特徴である。




1937~1946年(日中全面戦争時期)     基本の設計は変わらないが、1936年1月20日に発行した「陸軍制服条例」により、名札と腕章の変更があった。

図1:この時期に憲兵司令部が成立され、日本憲兵の影響を受け、腕に赤い憲兵二文字が描かれている巻き腕章が使用されるようになった。そしてモーゼルM712拳銃、Yタイプの皮製サスベンダー付きのマガジンポーチと20発装填のマガジン12個が配備されている。

図2:南京江寧府憲兵学校に訓練を受けている兵士で、日中戦争中の憲兵戦闘服姿が伺われる。憲兵野戦服は憲兵勤務服と異なって、イギリスのMK-2ヘルメットを標準装備とし、そして国産の中正式小銃(モーゼル1924式小銃のランセンス生産)が支給されている。

 

図1:日中戦争中の国府軍憲兵隊の腕章を示している。日本憲兵隊に似たような憲兵二文字とその下に所属部隊が描かれ、裏面は紺色である。(クリックすると拡大像がみられる)

図2:同時期に国府憲兵隊の憲兵勤務ヘルメット、俗に“羅士帽”(なお、語源は不明である)という。

図3:当時の憲兵用警笛。

左図:日中戦争中の憲兵第17連隊の憲兵上等兵で、常服の左胸に階級識別付きの名札がみられる。    

右図:この種の名札の復元で、終戦するまで採用されてきた。クリックすると拡大像がみられる。大きさは縦7センチ、横9センチで、まわりに幅5ミリの階級識別色枠と三ツ星階級章の右に1本の兵科色帯(灰色)が描かれている。写真の例に示しているのは憲兵第9連隊第3大隊第9中隊の中尉小隊長。

日中戦争中の憲兵第11連隊の憲兵常服である。白黒写真には分りにくいが、ピンク色の襟章に紺色の横棒一本と三角星1つが憲兵伍長であることを示している。右図はその名札の拡大像であり、はっきりはしていないが、一行目に憲兵第11連隊、二行目の第3大隊第8中隊の記入が識別でき、一番下は所属兵科の”憲兵”が描かれている。



図1:日中戦争中に国府軍兵站作業が追いつかないため、各地の憲兵連隊の軍服が現実的に乱れていた。1943年の国民参政会会場に警備勤務をし、蒋介石に敬礼している憲兵はまだ古い21年式(1932年式)の防暑帽をかぶっている。

図2:1946年終戦時に南京高等法院(最高裁)で行われた戦犯審判に勤務をしている憲兵(右の二人)、ベルトはすでに新しい憲兵勤務ベルト(革製のベルトとバックルに憲一文字が描かれている)を着用しているにも関わらず、旧式のヘルメットをしている。




※戦後、1947年からの変遷※

日中戦争後、1946年の”六中全会(第六回国民党党員代表の全国大会)”で政府が国府軍の軍服装備を更新しよういう提案を同意した。この時期から米軍スタイルの憲兵軍服がみられるようになった。

図1:米軍の兵科章を参考し、憲兵兵科章が設計された。名札の基本様式はまだ戦前のスタイルではあるが、憲兵の兵科章が追加された。

図2:開襟の軍服や憲兵パッチなども導入された。下の写真をクリックすると、名札の拡大像がみられる。記入資料として、上から発行単位の憲兵司令部、所属部隊の憲兵第17連隊第1大隊第三中隊、階級および兵科の上等兵憲兵、有効期限の中華民国38年(1949年)などが示されている。

図3:米軍式の船型帽(ギャリソンキャップ)略帽を被っている憲兵兵士。なお、軍服はまた旧式である。

図下:1947年憲兵第17連隊第三中隊中隊長が所属する1つの憲兵隊駐在地に視察するときに撮った写真である。士官たちは旧式の軍服でありながら、駐在する憲兵隊隊員はすでに船型帽(ギャリソンキャップ)などの米軍スタイルの軍服を着用していた。

上左と上右:1947年に憲兵司令長官張鎮(ちょうちん)将軍がいままでの憲兵服を大幅に改正した。当時アメリカの援助を大量に受けた国府軍は正面に憲兵帽章を入れたアメリカ軍M1ヘルメットを採用した。左は国共戦争中の様式で、米軍のOD色まま、右は台湾に移転してから変更したグリーン色である。

左下:ベルトは革製のもので、バックルに という文字が描かれている。

右下:ヘルメットの憲兵金属帽章であり、表面にはエナメルのコーティングが施されている。ヘルメット帽章を除き、これらの様式は1959年「陸軍制服条例」の改正とともに姿を消した。


1947~1958年(国共戦争時期)   日中戦争なかばからアメリカの支援を受け、米軍装備が支給されるようになったが、国共戦争のために憲兵軍服の乱れが増していた。

図1:写真の蝋人形はその一例である。 米軍のピストルベルトや米軍布製「綁腿(脚絆のこと、レギンス)」がそのまま流用し、のちに憲兵帽章を入れたM1ヘルメットのナイナーが憲兵勤務用ヘル メットとなったのもこの時期からである。

図2と図3:37年式(1948年)南京被服場で作られた憲兵常服と41年式(1952年)のものを示している。基本様式とも折襟の中山服であるが、色やボタンがかなり異なっている。

図4:この時期の憲兵兵士の個人写真で、図1と比較すると一目瞭然とした。ヘルメットは憲兵帽章入りのM1ヘルメットで、ベルトはまだ旧式のものであるが、1952年から採用された米軍の革製レギンスがみられる。

図5上下:初期の布レギンスと1952年から採用した革レギンスである。


 

1952年以降(台湾初期)    国府軍が台湾へ移転し落ち着いたところ、米軍の援助をうけながら、軍服装備も全面的に米軍化し、これは1952年に新たな軍服条例が設けられたことによって公式化された。

上左、中:新式の襟階級章を示す。これは下士官様式で(写真は三等士官長、曹長相当)、左襟には階級章、右襟には兵科章を着用する。

上中:襟に付ける新式の下士官の階級章である。上の段の左からは下士(三等軍曹)、中士(二等軍曹)、上士(一等軍曹)と、下の段は曹長で、左から三等士官長(三等曹長)、二等士官長(二等曹長)、一等士官長(一等曹長)である。

上右:腕につける階級パッチである。左から一列めは上等兵、一等兵、二等兵で、二列めは上士(一等軍曹)、中士(二等軍曹)、下士(三等軍曹)と、三列めは曹長で、上から一等士官長(一等曹長)、二等士官長(二等曹長)、三等士官長(三等曹長)である。

下左:実際に兵科章を付ける軍服姿の写真である。

下中:憲兵兵科襟章の大きさは縦2.5cm、幅2.2cmであり、その上方は中尉の金属階級肩章である。

下右:台湾時期の新しい名札の一例で(1950~1957年様式,縦9cm、幅3cm)、1959年まで採用された。旧式軍服と同様に左胸に付け、裏は所属単位と職務が描かれている。ちなみに国府軍には認識票がないため、これを代用している。

1957年から、憲兵の業務実施中を示す特別装着品:「憲兵」二文字が描かれている白いヘルメット、白いモール、白いピストルベルトなどが試行され始めた。


1959~1969年 (冷戦初期)      1959年より、新たの陸軍軍服条例に従い、台湾軍となった国府軍の折襟軍服が全面的に廃止され、西側陣営の主流となったアメリカ軍のスタイルに変更した。ネクタイと開襟式の軍服、カーキ色のシャツや、現在台湾憲兵の定番となった白い飾緒(モール)、勤務用ヘルメット、勤務用ピストルベルトなどの導入はこの時期である。当時中央憲兵(一般憲兵隊)と三軍憲兵(野戦憲兵隊)の軍服はそれぞれ異なっていた。

左からの写真は当時の一般憲兵の憲兵曹長と憲兵大尉の夏常服で、真中のカラー写真は復元した一般憲兵隊甲種勤務服の蝋人形である。一番右は空軍憲兵隊の甲種勤務服であり、一般憲兵隊の軍服より濃い色を採用していた。


1959年4月24日、当時の憲兵司令長官尹俊任(いんしゅんにん)将軍が新しい陸軍軍服条例に基づき、陸軍総司令部へ「憲兵軍装専用付属品」を提示し、そのなかに憲兵勤務用の白いピストルベルト(左)と憲兵勤務用の白いヘルメット(右、ヘルメットの左側に憲兵2文字が描かれている)は現在も採用されている。

左図:1953年から1969年まで憲兵常服や甲種勤務服の右胸に付ける獬豸(かいち)章の写真である。

右図:黄珍吾(こうちんご)将軍が憲兵司令長官の時代に海軍憲兵隊を成立し、その時の軍服様式を示している。海軍の水兵服のままで、右胸の獬豸(かいち)章、右腕の憲兵隊パッチと左腕のモールが憲兵隊であることを識別している。1970年から王永樹(おうえいじゅ)将軍が憲兵司令長官在任中に、すべての地方憲兵隊と陸海空軍の野戦憲兵隊を同じ軍服にし、この海軍憲兵隊の軍服が姿を消した。


1970~1983年(冷戦後期)      1970年に王永樹将軍が憲兵司令長官を就任し、憲兵隊の軍服を統一しようとした。いまの台湾憲兵隊のイメージである冬常服のアイゼンハワー・ジャケットもこのときから導入され、最初は下士官や兵士のみが支給されたが、1979年から将校も着るようになった。その代わりに、シングル4つボタンの背広型憲兵常服は大佐以上のみに着用が許されていた。なお、この時期の憲兵はまだ編上靴と革レギンスを着用していたが、この頃から北部いくつかの憲兵隊がレギンスあたりのズボンにシワをなくすためにプラスチックの筒をズボンに裏打ちした。1977年から憲兵全軍に半長靴を支給し始め、憲兵甲種勤務服のズボンにプラスチック筒の裏打ちも定番となった(ちなみに三軍儀仗隊も同じやり方をしている)。 >

図1:この時期の憲兵夏甲武装の復元蝋人形であり、足元のプラスチック筒裏打ちが分かる。なお憲兵のOD色は一般陸軍より茶色系になっているので、野戦演習中の戦闘服姿にも憲兵部隊であることが区別できるが、その違いは兵役経験者しかわからない。

図2:この時期の憲兵の小銃はM1カービン小銃である。

図3:モールを付けない夏期甲種勤務服は中隊内部の警備勤務にみられる。

図4:憲兵上士(一等軍曹)の冬常服、カーキのシャツとアイゼンハワー・ジャケットがみられる。なお、当時の憲兵ネクタイは黒色であった。

 

1970~1979年の間に採用された憲兵勤務執行中のみ左胸に付ける憲兵章であり、右は海軍憲兵隊様式である。




1984年以降       現行する憲兵軍服は1984年からの様式であって、20年以上も使用されてきた。過去の経験によると、台湾憲兵の軍服は20年ごとに大きな変革が行われるが、いまのところ軍服の改正の見込みはまったくなく、この様式はすでに台湾国民に憲兵のイメージとして定着してきた。

図1:現在の憲兵冬期甲種勤務服の蝋人形である。 国産65式小銃が採用されるまで、アメリカ製M16小銃が全軍支給されたのは憲兵隊と空挺隊のみであった。

 

図2:総統府正門の憲兵夏期甲種勤務服姿、儀仗の意味でメッキのM1ガーランド小銃を使用している。ヘルメットは防弾材質のM1ヘルメットナイナー様式、ネクタイは黒から憲兵OD色に変わった。

図1:1997年からシングル4つボタンの背広型常服を甲種常服、アイゼンハワー・ジャケットを憲兵士官乙種常服と規定した。
1999年からギャリソンキャップが復活され、曹長以上が支給される。写真は憲兵丙種(半袖)夏常服である。

図2:同上1999年から憲兵軍帽帽章の生地がOD色から陸軍と同じ黒色に変更された。

1981年に参謀本部の《通甲字二号命令》により、三軍の軍服付属品、特に階級章に新たな変更があって、今まで陸海空軍別々であった階級章の模様は陸軍様式を中心に統一された。

左図:異なる時期の夏常服の憲兵中士(二等軍曹)の肩章である。左側の一対は1981年からの様式で、下士官の場合まわりに丸い枠が設けられている。右側は同じ階級の1992年からの様式で、丸い枠が取り消された。

右図:憲兵戦闘服に付けられた兵科襟章である。丸い枠のないものは士官であり、これに対して、丸い枠の付いているものは下士官である。 ただし、1992年から下士官の丸い枠がなくなり、士官と同じ模様になっている。

※憲兵部隊識別章※

獬豸(かいち)とは伝説の動物で、青い毛に覆われ、羊にも熊にも似ていると言われている。一本の太い角があり、争っている者がいれば、正しくない側を角で触れ、法廷で偽りを述べる者には走り寄って角で突く。中国の長い歴史の中で、法のシンボルとされてきた。 1946年から憲兵隊にこの獬豸(かいち)章をシンボルとして採用されてきた。

戦後国府軍が米軍の影響を受け、階級兵科章以外に、部隊識別パッチも導入し始めた。最初は1946年から高級将校の間に右腕に獬豸(かいち)模様入りのパッチがつけられていた。この初代の憲兵章は1957年まで使用されていた。

1957年に蒋介石大統領が「各部隊が特徴や功績を表現できるシンボルを導入し、団体の名誉心を強化せよ」と指示した。軍部は米軍顧問の意見を参考し、この指示に応じ軍服施行条例の中に部隊識別章の採用を定めた。憲兵司令部も1957年に新たな獬豸(かいち)を設計し、憲兵高級将校の「軍常服」にこの模様の部隊識別章がみられるようになった。
1959年1月から、参謀本部の指示のもとで陸海空軍全員が部隊識別章をつけ始めた。憲兵隊も5月1日から「軍常服」、「軍便服」の左腕に獬豸(かいち)章が付けられるようになった。この様式の部隊識別章は1959~1969年に採用されていた。

左図は士官用、右図は下士官兵士用。

 
なお、空軍と海軍の独立野戦憲兵隊の部隊識別章も同時に統一された。写真は当時の海軍憲兵隊のパッチであった。

 
獬豸(かいち)章について当時の憲兵隊OBの裏話であるが、「軍事戒厳令時代」に憲兵隊は警察より権限が大きいため、憲兵の獬豸(かいち)パッチを提示するだけで、映画舘やバスなどが無料となるので、憲兵隊内部に限らず外部の一般人もニセのパッチを使って私服憲兵隊を偽り悪用したケースが多かった。このため、1968年に軍服改正を機に取り消されたと言われていた。


1969年から、国防部が軍事機密の理由ですべての軍服に部隊識別章の着用を禁ずるようになり、1999年11月から台湾軍の各部隊のパッチが復活されるまで、 30年間に獬豸(かいち)パッチが消失していた。右写真は1999年からの新しい獬豸(かいち)パッチである。



※憲兵勤務章※

1946~1950年 1951年 1951~1957年の間に、アメリカ軍事顧問団の提案により、軍服の改正が頻繁に行われた。憲兵勤務章もこのため毎年の様式が多少異なり、しかも下方に使用期間が書かれている。1959年に様式がやや定着し、5月から憲兵全軍が勤務中に必ず付けると定められた。

1957年以前に部隊識別章の規定がなかった時、しかも陸海空軍の憲兵軍服がバラバラのため、憲兵隊は勤務外にもこの憲兵勤務章を付けていて、部隊識別章の代用品として使われていた。この憲兵勤務章の材質とは、塩化ビニールの印刷物であったが、1963年から刺繍品を塩化ビニールに密封されたものが採用されていた。

1957年から、陸軍に米軍と似たような階級章が採用され、下士官と兵士の階級章は襟章から腕パッチになり、左腕に付けられていた。憲兵隊が勤務中に法律の実行者として、自分より階級が上の相手にも堂々とした態度で対応できるような考慮から、憲兵勤務時には憲兵勤務章が左腕の階級章をカバーする規定が設けられた。

この二種類の憲兵パッチは1969年以降、国防部が軍事機密の理由ですべての軍服に部隊識別章の着用を禁ずるようになった。
1946~1950年の様式
下方に蓮の模様。
1951年の様式
下方には当時の憲兵兵科章。
1952年 1953~1957年
1952年の様式
下方には当時の憲兵兵科章。
1953~1957年の様式
1957年 1958年
1957年の様式
下方に国防部のマーク。
1958年の様式
下方に国防部のマーク。
1959~1965年 1966年以降
1959~1965年の様式
下方に国防部のマーク。
1966年以降の様式
上方に国防部のマーク。


 
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